2019年02月13日

「タリーと私の秘密の時間」

先日神奈川県藤沢市、鵠沼海岸の「シネコヤ」に行ってみました。
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昨年夏に公開された「タリーと私の秘密の時間」が
こちらで上映されていたから。

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建物1Fは貸本スペース、2Fは映画上映のスペースです。
趣きある階段を上がっていくと、
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アンティークの様々な椅子や机があって
こじんまりとしたお部屋。
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前方に大きなスクリーンがあります。
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さて「タリーと私の秘密の時間」
こちらは一生懸命三人の子育てに頑張る
女性の苦悩を描いた映画。
三人目に授かった四十代での出産、
母乳育児を頑張りたくて
上の子二人の子育ても家事も
手を抜きたくない彼女。
だけど他人に頼ることは大の苦手。

彼女にとってもう一つ大きな悩みの種は長男のこと。
情緒が安定するから、と息子の身体を
優しくブラッシングする彼女、
だけどこだわりと自己主張がとても強い彼は、
日常の定番が崩れることを許容できず
大きな音も苦手で水洗トイレの流水音にも恐怖を感じるほど。
通っていた小学校からは
その子にあった教育を提供できる学校に
転校した方が良いと迫られてしまうのです。

家事にはとても十分には手が回らなくて
冷凍物も食卓に上がる日々。
出張で留守がちな夫は
母乳育児は男は役に立たないと
就寝前にヘッドホンをつけて一人ゲームに興じる日々。
話を聞いてくれるだけでいいのに、と思う妻。

忙しい、疲れている、余裕がない、孤独、
表面的にはそれで追い詰められているように見えるけれども
「自分に対して怒っている。空っぽだから。自分が」って
言った言葉がとっても印象に残りました。

終わりなく繰り返される忙殺された時間の中で
こんなにも一生懸命頑張っているのに
自分を空っぽだと感じてしまった時
何よりもそれは大きな衝撃なんだと思いました。
posted by Lana-Peace at 10:34| アート / 歴史 本・映像

2015年10月31日

セリフの中ににじみ出るもの

こちらこちらで取り上げた『まんが日本昔ばなし』の
「うぐいす長者」ですが、同じ原作なのに、
1977年の作品と1991年の作品
随分、雰囲気が違います。
私は前者の方が好きなんだけど
前者にはこんなセリフがありました。

ちっとも物が売れなかったお茶売りの男の人が
木の下に座って、竹の皮に包んであった
白ごはんだけのおにぎりを1個頬張ろうとした時、
「お地蔵さん、寒いですねえ。」そう言って
木の下のお地蔵さんに微笑み
お地蔵さんの顎のところに、ご飯粒1粒を
くっつけてから、お地蔵さんの横に並んで
おにぎりをぱくりと食べたのです。
そしてピューと風が吹く、という情景です。
ちょうどはじまって1分すぎたあたりです。

そういうエピソードがあるだけでも、
お茶売りの男の人の人柄が、
何だかにじみ出ていますよね。

その場面はなぜか1991年の中には登場しません。

同じ原作を取り上げるとき、短い放送時間の中では
構成やセリフ、絵のタッチによって
随分雰囲気が変わってしまいますね。

お地蔵様の顎にご飯粒をつけるって、
大人から見たら、それは不作法と言われるかもしれないけど、
でも、自分一人でおにぎりを食べるんじゃなくて
お地蔵様にもわけてあげよう、
それもさりげなく、こどものテイストでちょっといたずらっぽく…
っていうのが、こどもの心に自然に通じるのではないかなあ。

今のアニメって、何かとんがった感じのとげとげしいものが多くて
見ている時の、なんだか安らかな心地良さって得難いように思うのだけど
(それはおばちゃんだから、いまどきの若者じゃないからと言えば
 そうかもしれないけど…)
なんか、じんわりあったまるような湯たんぽみたいなアニメが
あっても、いいんじゃないかなあ。と思う今日この頃。
そういうアニメって、入院中とか自宅療養中のこどもたちが見た時に
心落ち着くなあ…って気持ちになれると思うのだけどね。
きっとそれを一緒に見ている親も。

1977年2月19日に放映された「うぐいす長者」は
演出・作画:森田浩光氏 文芸:沖島勲氏 美術:槻間八郎氏です。
原作のお話は「見ちゃいけない4番目の蔵を、見ちゃったぞ」という展開に
なってしまうのですけど、まあそれはそれで
うぐいすと人間界の不思議ワールドが混合で
こどもが見終わった時に、不快感満載にはならないはず…。
(だから安心して見せられると思うのです)
posted by Lana-Peace at 19:46| アート / 歴史 本・映像

アニメに登場する日本文化〜『まんが日本昔ばなし』「うぐいす長者」と尾形光琳

こちらで紹介した『まんが日本昔ばなし』の「うぐいす長者」のなかで
お茶売りの男性が、母親と美しい四人の娘が住む
お屋敷の中に通される場面があるのですが、
大広間で母親の着座する後ろに掲げられている屏風絵は
白梅と紅梅と、その間に渦のようなものが描かれていました。

この構図、どこかで見たことあるような?
たぶん、尾形光琳の紅白梅図屏風が元になっているのかなあ。
大人になったから気付くものの、
でもこの絵の美しさ、きっと何もわけわからず見ているこどもにも
きっと伝わるだろううな。

美しい日本庭園や美しい襖絵、彫の美しい欄間とか
とにかく、ほんの数秒しか出てこないところにも
日本文化の素晴らしいところが
「さりげなく」取り入れられているのです。

そうして当たり前のように、
見流してしまうようなものの中にも
日本の良さが出ているって、すごく贅沢で上質だなあと思うのです。

「うぐいす長者」はどうやら2回制作されたようで
1つは放送日が1977年2月19日
もう1つは放送日が1991年03月2日。
私が今回見た方は1977年の方。
1991年のものと見比べてみると、随分雰囲気が違います。
人それぞれ好みがあるでしょうが
私は1977年の方が好きだなあ。
前者の方が作品全体あたたかいイメージをうけるのは
絵のタッチや、同じ話でもセリフが違うからかな?

その詳細は別ページで。
posted by Lana-Peace at 19:22| アート / 歴史 本・映像

癒し効果満載の『まんが日本昔ばなし』

小さい時に触れたものは
ある日突然、大人になって懐かしく、
あたたかさや心強さを伴って
思い出せることがありますね。

がんの手術をしてちょうど今の季節で3年になるのですが
そういえばあの頃、入院中、
空き時間に見たかったもののなかに
『まんが日本昔ばなし』がありました。
小学生の頃、土曜の夜に見ていたものですが
なぜか強烈に、あの時期思い出したのです。

それはなぜか?

市原悦子さんと常田富士男さんの
あの、ナレーションが醸し出す独特のほんわかした雰囲気と
あたたかい映像が、妙に懐かしかったのです。
そして、手術を待つまでの間、
手術が終わってからの時間、
今後の治療をどう選択しようかと
心の中が殺伐と、とげとげしていた時期。

あのお二人のナレーションが心の滋養になるような気がしたのです。
(結局は入院中、見れなかったのですけど)

先日それを思い出して、無料動画配信サイト「GYAO」を見たら
「うぐいす長者」をやっていたので、見てみました。
(どうやら2015/10/30で配信終了だったようですが…)

そこで思わぬいろいろ発見あり。
ちょっと、これから書いてみます。
こちら と こちら
posted by Lana-Peace at 19:12| アート / 歴史 本・映像

2015年08月13日

宮下奈都(2015)『神さまたちの遊ぶ庭』光文社

そのタイトルに魅かれて手にした宮下奈都さんの本
『神さまたちの遊ぶ庭』※、
こちら宮下さんのご主人が強く希望され、
北海道のトムラウシに1年間、家族全員で移住された時の
お話が綴られたものです。
  ※宮下奈都(2015)『神さまたちの遊ぶ庭』光文社

短い日記風に1年分記されているこの本、
北海道の山奥の自然の豊かなところで住むこと、
そこで小学生、中学生のお子さんが3人、山村留学して
少人数教育の学校生活を送っていくことなど
いろいろなお話が登場します。
特に3人のお子さんたちの愉快なエピソードを知ると
こどもってどんな環境でも、いろんな成長の芽を
いろんな風に伸ばして行けるんだなあって、
感じることができる本です。

私も親の転勤で、小学校の頃に4年間北海道滝川市で過ごしたけど、
今から振り返ると、あの4年間は自分の核になった時間だなあ…。

暑い日、何か気分がシャキッとしない時、こちらお勧めの1冊です。
自分ではどうしようもできない心の重さは
読み進めていくうちに、トムラウシの風に吹かれて
どこかに飛んでいきそうな、そんな感じがいたします。

posted by Lana-Peace at 12:54| アート / 歴史 本・映像

2015年02月01日

文学作品の中で生きるアート 盛岡天満宮の狛犬と石川啄木『葬列』

こちらで盛岡天満宮の狛犬をご紹介しましたが
この狛犬、石川啄木の『葬列』に登場する狛犬です。
どのあたりに?という方のために青空文庫より引用してみますね。
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(※旧漢字は当方が改めています)
「詣づる人又人の手で撫でられて、其不恰好な頭は黒く膏光りがして居る。
そして、其又顏といつたら、蓋し是れ天下の珍といふべきであらう。
唯極めて無造作に凸凹を造(こしら)へた丈けで醜くもあり、
馬鹿気ても居るが、克(よ)く見ると実に親しむべき愛嬌のある顏だ。
全く世事を超越した高士の俤、イヤ、それよりも一段と俗に離れた、
俺は生れてから未だ世の中といふものが西にあるか東にあるか知らないのだ、
と云つた樣な顔だ。自分は昔、よく友人と此処へ遊びに来ては、
『石狛(こまいぬ)よ、汝も亦詩を解する奴だ。』とか、
『石狛よ、汝も亦吾党の士だ。』とか云つて、
幾度も幾度も杖で此不恰好な頭を擲つたものだ。
然し今日は、幸ひ杖を携へて居なかつたので、丁寧に手で撫でてやつた。
目を転ずると、杉の木立の隙から見える限り、野も山も美しく薄紅葉して居る。
宛然(さながら)一幅の風景画の傑作だ。
周匝(あたり)には心地よい秋草の香が流れて居る。
此香は又自分を十幾年の昔に返した。」

引用サイト:青空文庫 石川啄木『葬列』
底本:「石川啄木作品集 第二巻」昭和出版社
   1970(昭和45)年11月20日発行
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狛犬の頭は黒光りはしていなかったけど、
もしかしてこれは新しく作り替えられたのかなあ?
まあそれはともかく。

啄木は「一幅の風景画の傑作」と称した天神山からの風景、
2014年5月に訪れた時は「秋草の香」はなかったけど
新緑が目にも鮮やかなこんな感じでした。

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山の麓に広がる街がとってもいい感じ。

文学作品の中に登場したものが、新しい時代になっても
同じようにそこにあるっていいですね。
そして文学作品の中の命は不滅だから。
posted by Lana-Peace at 16:51| アート / 歴史 本・映像

2014年06月13日

街角を照らす路傍の街灯(A・F・V・クニッゲ)

言葉によって気付いたり、気付かされたり、随分と人は感化を受けるものです。

「日の光を 藉りて照る大いなる月たらんよりは、自ら光を放つ小き燈火たれ」
これは明治の文豪 森鴎外が『智恵袋』に記した言葉ですが、
鴎外のオリジナルなのではなくて、18世紀末、A・F・V・クニッゲによって書かれた
原典を元にした翻案なのだそうです。

クニッゲの原典にはこう記されています。
「太陽の光で輝く月になるな。恒星の回りをまわる衛星になるな。
むしろ、小さくてもよいから自身の光で薄暗い街角を照らす、路傍の街灯であるべきだ。」

何百年経っても、決して古臭くなく、色褪せずに「良いなあ」と思える言葉、
それはきっと真理をついているものだから。言葉もアートですね。
それは日々の自分の生活の中に影響してくるように思います。

詳しくはこちらに書きました。
Lana-peace 人間の生きる力を引き出す暮らし
自分で作ろう!元気な生活 
「街角を照らす路傍の街灯」
http://www.lana-peace.com/3/3-1-014.html
posted by Lana-Peace at 08:51| アート / 歴史 本・映像