2019年12月02日

五色塚古墳・小壷古墳(兵庫県神戸市)

本日ご紹介分は2016年10月(もう3年も経ってしまった)に訪れた
兵庫県神戸市垂水区の五色塚古墳と小壷古墳です。
まずは密集した住宅街の中に復元された古墳が登場です。

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五色塚古墳は4世紀末に造られ
前方後円形と島状遺構が2基で
全長194m、後円部の高さは18.8m。
墳丘段数は3段でとにかく大きい!

現地の解説板によると葺石の数は2,233,500個
淡路島東岸産で斑糲(はんれい)岩が主で
その他花崗岩だそうです。

古墳そばにあった案内館には復元CGパネルがありました。
築造当時の五色塚古墳と小壷古墳は
上空から見るとこんな感じで
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明石海峡から見るとこんな感じだったと考えられています。
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葺石の数は膨大であるため、
大きな石を運んで古墳の近くで細かく砕いて
大きさが整えられたのだろうか?と想像しますが、
今は約3.9kmの明石海峡大橋で結ばれている瀬戸内海、
当時は間違いなく船で運んだことでしょう。
どれほど多くの人員の労力と
それをまとめる統率力があったのだろうかと
驚きです。
被葬者は不明ですが海からこの古墳を眺めたら
きっと海から攻めこもうと思った敵も
これだけ絶大な支配力があるところに
戦をしかけることは諦めそうです。

案内館には1/100の縮小モデルもありました。
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当時はこんな風に埴輪が敷き詰められていたそうです。
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復元されていた五色塚古墳の遠景はこんな感じ。
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用いられた埴輪は2,200本以上と推定されており、
そのうちの約600本が発掘調査で出土しています。
築造当時は墳頂部と上段平坦面、中段平坦面の三段に
4本から6本の鰭付円筒埴輪に1本の割合で
鰭付朝顔形埴輪が立てられていました。
朝顔形埴輪の高さは約140cmもあるので
これだけ大きなものを壊れないように
造形、焼成して運搬して設置する当時の技術も
すごいことです。

その他に蓋形(きぬがさ)埴輪や家形埴輪、
盾形埴輪も少量発見されています。

現地の復元では出土した埴輪を元に
後円部と前方部の墳頂だけに
合成樹脂で製作された鰭付円筒埴輪と
鰭付朝顔形埴輪が立てられていました。

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埴輪のそばに鳥が飛んで、その遥か上空に
飛行機が飛んでいました。
巨大な古墳の上を大きな飛行機が飛ぶなんて
当時の人は想像もつかなかったことでしょう。
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前方部は明石海峡方面に向かって伸びています。
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五色塚古墳のすぐそばにあった小坪古墳は
築造が4世紀後半と推定されています。
大きさは直径70m高さ8.5mで
二段にわたって墳丘が築かれ、
斜面に葺石はなかったものの、
墳頂部と中段の平坦面には
五色塚古墳のような鰭付円筒埴輪が
設置されていたのだそうです。
復元整備される時に墳丘斜面に平坦面を作らず
斜面全体に芝張りが行われたことから、
当時とはちょっと違った趣です。

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五色塚古墳の墳頂からこんな風に見えます。
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マンションと古墳、なんだか不思議な光景。
でも、考えてみたらこれだけ住宅需要の高い土地、
こんなに大きな古墳を破壊しないで
そのまま残して復元しようと努めた
発掘当時とそれ以降の人たちのおかげで
今も五色塚古墳・小壷古墳の存在を
改めて認識ができるわけです。

2019年11月28日

大塚・歳勝土遺跡(神奈川県横浜市)

古い写真を整理していたら、
ブログでご紹介し忘れていた遺跡公園の写真が
いくつか出てきたので
ご紹介しようと思います。

こちらは2018年3月に訪れた神奈川県横浜市の
大塚・歳勝土(さいかちど)遺跡公園です。
一部の遺構の直上に復元されているところが
なかなかのポイントと思うので今日はご紹介です!

こちら無料で入場できます。
とてもきれいに整備されています。
歴史の見学というよりも公園として
のんびり散策、遊ぶ、といった形で
利用している小さなお子さん連れの家族が
あちこちに見られていました。

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こちらの遺跡は今から2000年前、弥生時代中期に
ここで稲作を始めた人々のムラ(大塚)と
その墓地(歳勝土)を中心とした遺跡です。
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ムラからは85軒の竪穴住居跡と
10棟の高倉倉庫跡が発見されました。
(大塚遺跡)
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弥生時代の遺跡を1.5mの盛り土によって保護し、
遺構の直上に住居を復元したそうです。
断面図を見ると随分しっかりした骨組みです。
弥生時代の建物ってすごいなあと思います。

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こちらはY-39号住居、
大塚のムラの中でも標準的な大きさの住居です。
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Y-17住居は2回住居の拡張が行われたことが確認されており、
住居には通路と考えられる溝も作られていました。

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復元方法は関東ローム層を掘りこんで作られている住居跡に
合成ゴムと斥候を使用して表面の方を取り、
特殊加工をしたガラス繊維強化樹脂セメント(GRC)で
住居跡の遺構面を再生し、そこに色の調整モルタル、
保護樹脂の塗布を行ったそうです。
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ムラから80mほど離れたところに墓地があり、
25基の方形周溝墓が確認され、
未調査部分も含めて30基前後があると推定されています。
(歳勝土遺跡)
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ここでは方形周溝墓の復元時にも遺構面の上に
1.5mの保護盛り土を設けて、
その上に更に復元盛り土で覆われています。
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復元されていたのは
遺跡北西部の5基の方形周溝墓です。
発掘調査によって出土した姿、埋葬当時の姿、
埋葬内部がわかる姿の3通りで復元されていました。

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こちらは埋葬内部の姿を再現したS-16
方形周溝墓の中央に掘られた四角い穴に
棺が納められていたと考えられています。
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復元されていない周溝墓の位置には石が埋め込まれて
輪郭が表現されていました。
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大塚・歳勝土遺跡公園の手前にある陸橋を渡ると
徒歩数分で横浜市歴史博物館につきます。
出土物が展示されていました。
センター北駅からも近いので、便利です。

2019年11月27日

加曾利貝塚(千葉県千葉市)

先週、千葉県千葉市の加曾利貝塚に行ってきました。

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広々した史跡公園になっていて正門から入って
林の中を進むとただいま発掘中の貝塚が登場です!
「これが加曾利貝塚かー!」と感動です。

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発掘現場のそばには昨年度の発掘調査現地説明会
資料が置かれていました。
休憩をとっていたスタッフの方が
1枚どうぞと渡してくれました。

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今週末には令和元年度の説明会があることも
ご案内してくださいました。
予定があって参加できないので残念ですが。。。

竪穴住居跡の近くに貝がぎっしりと集まった場所がありました。

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竪穴住居跡、柱穴が当時の生活を髣髴とさせます。
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普段は貝塚・遺跡など、知る手段は本や報告書に頼ってしまうけれど
実際の発掘現場にいくと、やっぱり迫力があるなあって思います。

休憩時間を終えて黙々とそれぞれの発掘作業に戻っていた人々の
日に照らされた背中を見ていると、
報告書に書かれていることや発掘物は
こういう人々のおかげなんだなあとしみじみ感じた時間でした。

発掘現場のすぐぞばに資料館があります。
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みみずく形土偶がありました。
縄文時代後期(安行1式)
加曾利貝塚 東傾斜面北東部 
112号住居跡出土のものです。
丸と点線と曲線だけで素朴に表現されていました。
なんだかあどけないこどもの表情を表しているようにも感じます。

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公園内には貝塚関連の見学場所が点在しています。

高い鉄塔のそばにあった波型の屋根の施設は
「北貝塚竪穴住居跡群観覧施設」
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約50年前、1968年から公開している
北貝塚の住居跡群だそうです。
貝層の下からたくさんの住居跡が見つかりました。
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こちらは「加曾利北貝塚階層断面」
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貝層断面をアクリル・エマルジョンやバインダー18などの
固定用樹脂を用いて固定展示されたもの。
貝の横には一部名称が書かれているものもあります。

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竪穴住居跡床面や貯蔵穴と考えられているものもありました。
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こちらの壁に挟まれた通路の先にあるのは
「加曾利南貝塚階層断面」。
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断面を剥ぎ取る転写法による展示です。
解説板によると今から4000-3000年前、
縄文後期の人々の貝塚で、貝層には焚火跡や煮炊き用の土器も
発見されており、大量の貝を土器で煮て実だけ取り出して、
天日干しして干貝に加工していたと考えられているそうです。
これなら日持ちがしますね。
季節を問わず、干貝を使ったスープなど食べて
元気に過ごしていたのかしら?
縄文時代もなかなかグルメです。

林の中にはドングリも落ちていました。
きっと縄文時代の人々も同じように
ドングリを見ていたんだなあと思うとわくわくしますね。

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竪穴住居も再現されています。
今秋の台風では千葉市は何度も被害にあったけれど
竪穴住居はしっかり残っていました。すごいです。
ただし今回は入り口は閉鎖されて中に入れないようになっていました。

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2019年02月02日

摺鉢山古墳(東京・上野恩賜公園内)

東京・上野公園内には正岡子規記念球場がありますが
その南、上野恩賜公園管理所のそばに階段があります。
それが実は古墳の上をのぼっていく階段だと知ったのは
つい最近のこと。

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現地解説板によると
摺鉢(すりばち)を伏せた姿に似ているところから
名づけられたという「摺鉢山古墳」は
約1500年前の前方後円墳で
弥生土器、埴輪の破片などが出土したそうです。

大きさは現存長70m、後円部径43m、前方部幅最大23m、
後円部と道路との比高は5mあります。

かつては五條天神、清水観音堂が鎮座していた丘上は
現在休憩場になっています。
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先月訪れた時は、美しく色づいた紅葉が青空に映えてきれいでした。
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古墳を壊しちゃうんじゃないかと思うほど
しっかり根を張った背の高い木が枝を伸ばしていました。
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これまで何度となく通ってきたこの場所、
地形上の丘の一部だと思っていたけれど
実は古墳とわかって、なんだかしみじみした午後でした。

2019年01月05日

上野 パンダ橋「上野駅東西自由通路建設地点の遺跡」

何年も上野公園に出かけていたけど、先日初めて知ったことがありました。
「上野駅東西自由通路建設地点の遺跡」です。
JR上野駅公園口を出て横断歩道を渡り、
東京文化会館の建物の手前で左側に進んでいくと
「パンダ橋」という大きな石碑があります。
その解説文を見てびっくり。ここが遺跡だったとは!
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江戸時代に寛永寺境内地であったことは知っていたけれども、
上野公園構内には縄文時代前期、弥生時代末期、古墳時代後期、
奈良・平安時代の遺跡もあったのだそうです。
知らなかったなー。

平成10(1998)「パンダ橋」と呼ばれる東西自由通路の建設にあたり
再び調査が行われました。
まさかここに電車が往来し、アートの集合する空間になっているとは
何千年も前の人には想像もつかなかっただろうなあ。

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2018年02月27日

縄文時代4000年前の炉(神奈川県足柄上郡松田町)

神奈川県足柄上郡松田町の西平畑公園には
「子どもの館」と「ハーブ館」の間に炉がありました。
こちら現地にあった松田町教育委員会の解説板によると、
平成元年から二年にかけて行われた東名高速道路拡巾工事の際、
松田山の根石台地で発掘された
なんと約4千年前の縄文時代の住居跡群にあった屋外炉を
移築したものなんだそうです。

4千年前の松田山周辺はどんな風景だったんだろう。

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2017年06月26日

西ヶ堀込遺跡(千葉県船橋市)の公開発掘調査現場 見学(2017/6/24)

おととい6/24、千葉県船橋市の西ヶ堀込(さいがほりこめ)遺跡の
発掘調査現場を見学してきました。
平日の発掘時間以外は保護シートで覆われているそうですが
6/24(土)は特別に午前中のみ公開。
こちら25年ぶりの発掘調査(本調査)ということなので
ぜひぜひ行ってみたい!とはるばる千葉まで遠征です。
10年ほど前、京都造形芸術大学の通信教育部で
歴史を学んでいた頃は、発掘したものに関する勉強はいろいろしたけれど
実際の発掘現場には行っていなかったので、楽しみ楽しみ。

場所はここ。
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(図は飛ノ台史跡公園博物館 H27年度船橋の遺跡展パンフレットより抜粋)


薬園台駅から近いですが、バスは津田沼駅から二宮神社行のバス
にのるとバス停 田喜野井入口で下車して数分の場所になります。

突如道沿いに、こんなお知らせが。
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そこからほどなく、大きなマンションや一戸建て、
畑に囲まれた場所に発掘現場がありました。
その住宅地一帯も、土の下は遺跡なのだそうです。
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なんと4000年も前のこと
縄文時代後期、このあたりに人々が
生活していたんだなーと思うと、ドキドキでした。

そこの場所では何代にもわたり家が築かれ、
家の跡が重なりあって作り直されている様子が
分かるのだそうです。
またそのあたりは当時水を確保しやすい場所だったようで、
川や池が2箇所あったそうです。

そして家の中で火を燃やした「炉」の跡がありました。
土の上で直に火をたいた炉は土が赤く変色していました。
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土に土器を埋め込んで、その中で火をたく炉もあって
その埋め込まれた土器の頭も、発掘現場で見ることが
できました。
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家の中で煮炊きしていろいろな料理をしていたんだなー。
始めは屋外にあった炉も
縄文前期から屋内に炉を作るようになったのだそうです。

現地からの発掘物に関しても
当日みせてくださいました。
なんと船橋市教育委員会の文化課で
埋蔵文化財調査に関わる責任者の方が、
発掘物を手に取りながら
一般の人の質問に直接答えてくれるのです!

こちら縄文式土器の破片
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こういった石器も出土しています。
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実にきれいな曲線です。

貝もいろいろ
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どんな質問も、にこにこと、
そして、実に詳しく、
一般の人にわかるように説明されていました。
専門家の話は、もうすごい、すごい。

現場からは大きな土器だけでなく
手のひらサイズのミニチュア土器も、
たくさん出土してくるそうです。
そうした土器は、かつてお祭りに使われたのではと
言われていたけれども、量が多く出てくるので
実は液体を入れていたのではないかとも
言われているんですよーとか、そういった新しい情報も。

関東ローム層は酸性とのことで、
骨は埋まっていても溶けてしまうそうですが
貝が捨てられていると、そのカルシウム分によって
土のペーハーも酸性度が弱くなって、
骨成分は守られるのだとか。

それから土器をつくる時に植物の種などがくっついたまま
焼成されると、その部分に穴が開いてできあがるので
出土した土器の穴にシリコンを入れてみると
種の形がわかって、
当時どんな植物があったのかわかる、
という話もされていました。
シルエットクイズみたいです。

出土したものは5ミリ、3ミリ、1ミリのふるいに順にかけて
それから水で洗うと話していました。
そうした手間は、大切な遺物を一気に流さないために。

現代の生活の土の下は数千年前の生活の痕跡。
発掘現場の横は畑になって
野菜が元気に育っていました。
こうした野菜が古代遺跡に向かって、根を伸ばしていく!?
そう思うと、なんだか、土の中は栄養だけでなく
ロマンがいっぱいです。

2014年11月07日

土偶 合掌土偶: 日本国宝展(2014年秋冬 東京国立博物館)

この土偶は青森県八戸市の風張1遺跡から出土されたもの。
発見された時、この土偶は竪穴住居跡の奥の壁際から、
背中を壁側に、顔・お腹側を住居の中央に向けるような方向で
出土されたのだそうです。
その時の状態を八戸市のHPで見ることができます。
http://www.city.hachinohe.aomori.jp/index.cfm/12,21230,43,153,html

展覧会では座位で展示されていますけれど、
出土された時の横たわった写真を見ていると、
何だかまるで、その土偶の向かい側にどなたか病気の方とか
生まれたばかりの赤ちゃんとか、守りたい人が
横たわって眠っていたかのようです。

土偶は自分の胸の前で手を合わせた無防備な姿です。
それは神にすべてをお任せして、
どうか願いを聞き届けてほしいといった気持ちが
表れているようです。

当時から胸の前で手を合わせることは
特別な意味を持っていたのだとしたら
それが何千年経っても今に残っているとは
すごいことですね。

こちら八戸市HPの情報によると
両腿の付け根、膝、腕は割れているにもかかわらず、
そこがアスファルトを使って修復されていたのだそうです。
そのようにしてまで大事にされていた土偶。
きっとすごく大きなパワーを秘めていると
考えられていたのだと思います。

また実際の展示品では私はわからなかったのですが
土偶の顔面や体の一部には赤色顔料が認められたのだそうです。

古墳から出土する棺の内側や外側には
赤色顔料が検出されること、よくあり
それが例えば魔よけのように考えられていることありますが
赤い土偶、直しても使いたかった土偶。
すごくいろんな物語がここに詰まっていそうです。
そんな物語までは、掘り起こせないけど。

八戸の縄文時代にタイムトリップしてみたいですね。

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土偶 合掌土偶
青森県八戸市 風張1遺跡出土 1個
縄文時代(後期) 前2000〜前1000年
青森 八戸市埋蔵文化財センター 是川縄文館所蔵
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土偶 縄文のビーナス: 日本国宝展(2014年秋冬 東京国立博物館)

長野県茅野市のHPによるとこちらのビーナスは
棚畑遺跡から発掘されたものとのこと。
環状に集まった縄文時代の集落のまんなかにある広場の土坑に
埋まっていたものだそうです。
出土された時の状態を茅野市のHPで見ることができます。
http://www.city.chino.lg.jp/www/contents/1000001480000/

こちらの土偶、帽子をかぶっているかのように
見受けられるのですが、真上から見下ろすと
頭のてっぺんは時計回りに渦巻きでした。

あるエネルギーワークを行う時
時計回りの渦の動きは意味ある力として扱われますが
縄文時代の人は何かの力をわかっていたのでしょうか?
縄文時代の精神文化、ますます不思議で興味深いです。

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土偶 縄文のビーナス
長野県茅野市 棚畑遺跡出土 1個
縄文時代(中期) 前3000〜前2000年
長野 茅野市 尖石縄文考古館保管
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