2022年10月31日

おなかで音楽を聴く画家 ルネ・プランストー(アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックの指導者)

今年は8-10月、
新しく取り組む仕事の作業等が幾つもあって
猛烈に忙しくて、
なかなか落ち着いてLana-Peaceのエッセイを
更新することができませんでした。
それでも少しずつ準備は進めてはいたのですが
ひと段落付いたので、
今日、ようやくお届けすることができます。

これまでフランスの画家アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックについて
Lana-Peaceのエッセイでは7回にわたりご紹介してきましたが
今回はいよいよその最終回となります。
初回は今年3月下旬から登場しましたが、
実は今年1月初旬から準備を始めていたので
足掛け丸々10カ月、
特に英語の文献の量が多くて
読み込んでいくのは
筆舌し難いほどの大変さであったけれど
ロートレックに関して各種出版されていた
文献のおかげで彼の人間性について
特に小児期を中心に随分知ることができて
良かったなと思います。

というわけで今日はロートレックの絵画の師匠である
「ルネ・プランストー」について取り上げたいと思います。

ロートレックは8歳の頃に彼から指導を受けるようになり、
飛躍的に絵画の才能が伸びていったわけですが
プランストーは絵画指導以外にも
様々な面で少年ロートレックの心に
大きな影響を与えた人だと言えます。
その一つが、障害に屈服しない、
自由闊達な生き方ではないかと私は思います。

プランストーは生来耳が不自由だったのですが
「おなかで音楽を聴く」と言って
おしゃれをして颯爽と舞踏会にも出かけるような人でもありました。

彼の生き方を知ると身体にハンディがあろうとも、
そこで限界を定めてしまうのは環境や社会ではなく、
自分自身なのだなと改めて思います。

そして欠けた部分を嘆き他を羨むのではなく、
今ある能力を最大限に活かしていくことで
それはいつかビリヤードのキューで突かれた球の如く
新たな方向へ進み、
良き影響を拡散していくのだと思いました。
例えばプランストー自身が画家として大成しただけでなく
少年ロートレックの才能をいち早く見抜き、
指導者としてその可能性をどんどん育てていったように。

またプランストーが当時フランスの国立聾学校で
受けた教育について調べていくうちに
彼の同窓生、2人の大先輩の存在を知る機会も得ました。
ローラン・クレールと
フェルディナン・ベルティエです。

教育がどれほど人の可能性を広げていくものなのか
とても感じることとなりました。




詳しくはこちらに書きました。

Lana-Peaceエッセイ
病気と一緒に生きていくこと
「限られた能力に捕らわれない生き方
- おなかで音楽を聴く画家 ルネ・プランストー -
(アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックの指導者)」
https://www.lana-peace.com/1/1-1-121.html
https://www.lana-peace.com

2018年11月17日

ユーモアとリフレーミングが救った心 ティモシー・チェンバーズ氏(Timothy Chambers)

先日こちらでアッシャー症候群で
目が不自由な画家ティモシー・チェンバーズ氏のお話をご紹介しましたが
彼は5歳の頃から耳が不自由で補聴器を使った生活をしていました。

彼が成長する過程で耳の障害に伴い
いろいろなことがありました。
クラスメートから補聴器を揶揄された時
相手を殴りたいほど腹立たしかったけれど
ユーモアで切り返し、クラスメートの羨望の的となりました。
高校生の頃のデートでハウリングが起こって
気まずい思いで意気消沈した時
リフレーミングによって気持ちを変えていきました。

そのきっかけを与えてくれたのは父親です。


自己卑下するわけではなく
現実逃避するわけではなく。

病気によって起こり得る不都合な出来事、
それが避けられないもので、これからも続くならば、
それとうまく折り合いをつけて生きていくことが
本人には求められます。
その方法を親御さんが教えてあげることにより
生き辛さが和らぐと、
お子さんにとって新たな力や可能性を広がるのだと思います。



詳しくはこちらに書きました。

Lana-Peaceエッセイ
家族の気持ちが行き詰まった時
「ユーモアとリフレーミングが救った心」
http://www.lana-peace.com/1/1-2-068.html

2018年11月16日

恐怖を乗り越えて描き進める絵筆 ティモシー・チェンバーズ氏(Timothy Chambers)

画家として栄えある賞を受賞し、
これからの活躍を嘱望された画家が
突然「あなたはこれから目が見えなくなる」と言われたら…
そして現在、社会生活の中で「盲人」とみなされるほど
視界が狭まり、視力が落ちていてもなお
芸術活動を続けている人がいたとしたら…
今日はアメリカの肖像画家
ティモシー・チェンバーズ(Timothy Chambers)氏の
お話を取り上げたいと思います。

十分眠れぬ夜は2年間も続き
恐怖におののいていた彼は
恐怖と向き合うようになってから、生活が変わっていきました。

「限界」とは自分が決める線なのかもしれません。
そしてそれは自分でいかようにも
変えられるのかもしれません。

詳しくはこちらに書きました。

Lana-Peaceエッセイ
病気と一緒に生きていくこと
「恐怖を乗り越えて描き進める絵筆」
http://www.lana-peace.com/1/1-1-111.html

2018年10月15日

耳の不自由な人が耳の聞こえる人と通話できる「手話フォン」

韓国仁川空港を訪れた時、耳の不自由な人が
スマホで相手の顔が見えるビデオ通話をしていました。
静かだけど、とっても楽しそうな手話でした。
こっちまで嬉しくなるくらい楽しそうでした。
すごく便利になった時代です。
でも、残念ながら電話の相手は
手話が理解できる人に限定されてしまいます。

さて、成田空港 第1ターミナル 中央ビル本館 1階
エスカレーターそばに、耳の不自由な方が
公衆電話をかけられるサービス「手話フォン」がありました。

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相手が手話ができなくても通話ができます!
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1)電話番号を押して最後に緑の受話器のマークを押す
2)手話がはっきり見えるように画面の位置を調整して
3)オペレーターと通話を始めます

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手話でお話した内容は、通訳するオペレーターを介して
相手先の電話、お店やホテル、会社といった
手話のできない人、ビデオ通話対応ではないところへ
電話連絡が取れるという仕組みです。

日本財団電話リレーサービスモデルプロジェクトの一環で
設置されているというこの手話フォン。利用無料です。

残念ながら緊急通報110とか119は利用できなくて
海外への通話もできないけれど
すごく便利ですね。

カメラは立って使う方、車いすのまま話をしたい方、
両方対応です。
立って使う方も身長に合わせて高・低が選べます。
仕切られたボックスの上半分はドアで目隠しされているので
リラックスして話ができます。

年中無休で 8:00-21:00
日本の手話のみ対応可です。

手話フォンのそばには海外旅行で使い終わった外貨を
自分の日本のICカードなどに日本円としてチャージできる
ポケットチェンジもありました。
画面に操作方法が書いてあるので
初めての利用でも楽々です。

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2018年07月29日

「教育によって開花する才能」―「京都盲唖院唖生図画成績品」より考える

2018年4月、訪れた東京国立博物館では今年、国宝・重要文化財として
新指定されたものが展示されていました。
そこでひときわ印象的だった掛け軸がありました。
「京都盲唖院唖生図画成績品」です。
図画科の各学年の生徒の作品の中でも
最も秀でたものが一幅の掛け軸として仕立てらたものでした。
見事な秀作揃いで、各人の豊かな若い才能が作品に溢れていました。

まだ就学率が100%ではなかった時代、
そのような時代に身体に障害があっても学びたい意欲を強く持ち、
なかには京都よりも遥か遠くの地から親元を離れて
学びにきていた生徒がいた、という事実が
とても強く心に残りました。
そして京都盲唖院について調べ始めてみると、
目や耳の不自由なこどもたちが初等教育及び職業訓練を
本格的に受けることができる機会を作ろうと、
情熱を燃やして奔走した人々の姿を知ることができました。

今日はその中心となった古河 太四郎(ふるかわ たしろう)の軌跡について
ご紹介したいと思います。
様々な人との出会いが彼の特別支援教育の礎を築くことになりました。
太四郎だけでなく、当時の京の町の人々の理解と懐の深さが
我が国初の特別支援教育学校開校へと導く原動力になったことは
特筆すべきものでもありました。



詳しくはこちらに書きました。


Lana-Peaceエッセイ
病気と一緒に生きていくこと
「教育によって開花する才能」
http://www.lana-peace.com/1/1-1-106.html

2018年03月31日

常識を飛び越える勇気と努力がもたらした成長 ― 聴力障害を越えて長野五輪テストジャンパーになった高橋竜二氏

今年は平昌オリンピック・パラリンピックが開催されましたが
今から遡ること20年前、長野オリンピック(1998年)で
スキージャンプのテストジャンパーとして参加した方の中に
耳の不自由な方がいたと知りました。
彼の名は高橋竜二氏。
彼が幼い頃からジャンプに取り組んだ様子が
何年にもわたり地元のテレビ局で密着取材が行われていたそうで
それは「風の音は聞こえない 少年竜二…空を飛べ」(札幌テレビ放送)という
ドキュメンタリー番組としてテレビ放映されたそうです。

神奈川県横浜市の「放送ライブラリー」で視聴できると知って
先日横浜に出かけた時、これはもう行くべしと思って視聴しましたが
その番組から考えること、すごくたくさんありました。
1回見ただけでは大事なことを見落としていそうで
何だかもったいなくて、2日かけて2回見ました。
そして20年前に放送されていたこの番組を
当時見ないまま過ごしたことをくやしく思いました。
それほどとても感動的な番組でした。

耳が不自由な方がラージヒルのジャンプを飛んで見事な飛距離をだした、
そういう事実もすごいことだと思いましたがそれだけではありません。
悪天候の中、飛ぶ時にプレッシャーをはねのけて全力を出して結果を出す強さ
そして代表選考会を兼ねた大会で優勝したけれども
正式な選手として選ばれることなく、テストジャンパーが依頼されても
その事実を受け容れて自分の責任を全うした潔さ。

ジャンプ台を前に「怖いもん」そう尻込みしていた耳の不自由な少年が、
努力を重ねて成長し、そして飛んだ白馬の雪空。
他人が当てはめる枠を自分で取り払う強さが
開いた新しい自分の世界。

障害の有無に関わらず一人の人間として
理不尽な状況や悔しさに直面した時、
人はそこにどう立ち向かうのか…学ぶことがとても多いものでした。
今日はぜひともご紹介したいと思います。



Lana-Peaceエッセイ
病気と一緒に生きていくこと
常識を飛び越える勇気と努力がもたらした成長
(聴力障害を越えて長野五輪テストジャンパーになった高橋竜二氏)
http://www.lana-peace.com/1/1-1-104.html
http://www.lana-peace.com/

2017年03月04日

たとえ耳が聞こえなくなったとしても…(難聴から10年間、精力的に作曲活動を行ったベドルジハ・スメタナ氏)

先月、こちらで幼い長女、次女、四女そして年若き妻に先立たれた作曲家
ベドルジハ・スメタナ氏のお話をご紹介しましたが、
今日は別の切り口からもう一度取り上げたいと思います。
彼は耳が聞こえなくなってから10年もの間、
精力的に作曲を続けたという驚異的なお話を。
おそらくどなたも学校の音楽の授業で
聞いたことがある交響詩「モルダウ(ブルタワ)」は
耳が聞こえない状態で作曲したものだなんて
想像できるでしょうか?

そして彼は晩年、もう一つ、悩まされていたものがありました。
記憶障害、幻聴、幻覚そして
自分が音楽の感性を失いつつあるのではないかという恐怖。
でもその恐怖に打ち勝っていた彼のそばには、
いつも原点に返ることのできる「作曲活動」があったと、
改めて感じることができます。


限界の線を引くのはきっと自分。
その線を引かずに努力を続ける時、
きっと苦境の中を生きる強さが生まれるのだと思います
ベドルジハ・スメタナ氏の人生は
まさにそれを体現した生き方だと言うことができるでしょう。



詳しくはこちらに書きました。

Lana-Peaceエッセイ
病気と一緒に生きていくこと
「たとえ耳が聞こえなくなったとしても…」
http://www.lana-peace.com/1/1-1-097.html

2016年12月15日

自分の可能性を広げ続けた80年 ―網膜芽細胞腫で眼球摘出、義眼となったピーター・フォーク氏

こどもの網膜にできる悪性腫瘍、
網膜芽細胞腫(もうまくがさいぼうしゅ)と診断され、
3歳の時、右目を摘出し、義眼を入れることになった少年は
83歳で生涯を閉じるまで
80年の人生の時間を、自分の可能性を閉ざすことなく
活き活きと生きていきました。

アメリカのテレビドラマ『刑事コロンボ』で
「うちのカミさんがね…」と話す主人公のコロンボ警部と言えば、
思い出す方もいらっしゃるかもしれません。
俳優ピーター・フォーク氏のお話を
今日はご紹介したいと思います。

演技と絵画の才能を発揮したピーター・フォーク氏。
どちらも目がキーになってくるものだけど
両目であろうと、片目であろうと、
見る、という可能性を広げていくのは、
自分次第なのかもしれません。

私は20代の頃に勤めていた病院で、
網膜芽細胞腫のお子さんのお世話を担当したことがありました。
どのお子さんも、皆愛らしく、
一人一人が心に残っています。
あれから長い時間が経ったけれど、
それぞれが、それぞれの人生を
幸せに生きていてほしいなあ…と切に思います。


詳しくはこちらに書きました。

Lana-Peaceエッセイ
病気と一緒に生きていくこと
「自分の可能性を広げ続けた80年」
http://www.lana-peace.com/1/1-1-096.html

2016年10月20日

苦境から見出す生きがいと喜び

音楽家ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1827)の
遺した数々の手紙の中から、
今日は晩年にいたるまでの彼の心の強さについて
考えてみたいと思います。

どんなに苦難の状況であっても、
それを支える何かに気付き、見つけ出し、
それをはっきりと自覚することによって、
人は変わっていけるのかもしれません。

回復しない病状にどれだけ落胆しても、
時は皆等しく流れていくもの。
そこでどう過ごすかが、
人生の色合いを大きく変えるのだと思います。



Lana-Peaceエッセイ
病気と一緒に生きていくこと
「苦境から見出す生きがいと喜び」
http://www.lana-peace.com/1/1-1-095.html

2016年10月05日

目標が支える情熱(ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン)

日本では年末あちこちで演奏・合唱される
「第九(交響曲第九番)」の作曲者
ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1827)。
彼は耳が不自由であったことはよく知られている話ですが、
難聴を抱えながらも作曲家として生きていくことは、
どんなに多くの困難と苦しみがあったことでしょう。
現在遺されている、彼の友人宛の書簡には
その心情が非常によくあらわされているので、
これから何回かに分けて、
ベートーヴェンについて取り上げたいと思います。

詳しくはこちらに書きました。



Lana-Peaceエッセイ
病気と一緒に生きていくこと
「目標が支える情熱」
http://www.lana-peace.com/1/1-1-094.html

2016年03月02日

信じる心、引き出す力(今井絵理子『ココロノウタ』『おやこ劇場』より考える)

こちらで今井絵理子さんと耳の不自由な息子さんをご紹介しましたが、
今日はお二人の話の中から、お子さんの無限の可能性の芽を引き出し、
育てていく力に注目し、取り上げたいと思います。

絵理子さんの関わりとお子さんの成長ぶりを知ると
人間の能力は現代医学でわかっていること以上に
まだまだたくさんの可能性を秘めているなあって思うとともに
とっても清々しい気持ちになってきます。

参考文献はこちら。
とっても読みやすくて、いい本ですよ。
今井絵理子(2009)『ココロノウタ〜息子と歩んだ4年間、そしてこれから〜』祥伝社
今井絵理子(2011)『おやこ劇場』祥伝社


詳しくはこちらに書きました。


Lana-Peaceエッセイ
家族の気持ちが行き詰まった時 
「信じる心、引き出す力」
http://www.lana-peace.com/1/1-2-057.html

2016年02月27日

音のある世界へ、ようこそ 〜母の涙と笑顔に秘められた思い〜」 今井絵理子『ココロノウタ』より考える

赤ちゃんが生まれた後、ご家族は無事生まれてきてくれた喜びと
幸せな気持ちでいっぱいだと思います。
そんな時、赤ちゃんの耳が聞こえていないと知らされたら…
心の中は混乱していると思います。

今日は耳の不自由なお子さんとその親御さんの
二人三脚で頑張ってきたお話をご紹介したいと思います。

親御さんの気持ちの切り替えって、
お子さんの新しい未来を切り開くものですね。


詳しくはこちらに書きました。

Lana-Peaceエッセイ
家族の気持ちが行き詰まった時 
「音のある世界へ、ようこそ
 〜母の涙と笑顔に秘められた思い〜」
http://www.lana-peace.com/1/1-2-056.html

2014年03月01日

ヘレン・ケラー女史 言葉から想起する力

今年は午年ですが、皆さんは「馬」を説明しようと思った時、
どんな言葉やイメージが頭に浮かびますか?
ヘレン・ケラー女史がサリバン先生と
出版社からこられた助手のネラ・ブラディー氏との間で
「馬」という言葉から何を連想するか、
話し合ったことがあります。

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ジョゼフ・P.ラッシュ著, 中村妙子訳(1982)
『愛と光への旅―ヘレン・ケラーとアン・サリヴァン』新潮社
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その内容を読むと、言葉から想起する力や、世界の広がりは
身体の不自由さを超えたものである、と思わずにはいられません。

詳しくはこちらに書きました。

Lana-Peaceエッセイ
病気のお子さんとご家族のために
「言葉から想起する力」
http://www.lana-peace.com/1/1-1-039.html

2014年02月24日

ヘレン・ケラー女史 求婚された時

ヘレン・ケラー女史の一生が綴られた本の中に
ある男性から求婚されたお話が載っていました。
1922年9月、カンザス州のある紳士が
ヘレンに求婚のお手紙を送ったのです。

その紳士は幼い頃、事故で両足に大怪我をされたのですが
とてもポジティブに生きてきた方でした。
心柱が一本、きっちりと通っているような方でした。
ヘレンとその紳士との書簡のやり取りを見ていますと、
病気や身体の不自由さによって
人生を諦める理由など一つもないように思えてきます。

結局、ヘレンはその方の申し出をお断りするのですが、
いろいろなこと、立ち止まって考える良いきっかけになったのだと思います。

他人の思い描く幸せを自分が追及すると、それは苦しいものになるけれど、
自分の思い描く幸せを追求していくことは、
こんなにも、人を活き活きとさせるものなのだなあと、改めて感じました。


詳しくはこちらに書いています。


Lana-Peaceエッセイ
病気のお子さんとご家族のために
「可能性を十分に発揮する権利」
http://www.lana-peace.com/1/1-1-038.html

2014年02月17日

バース・ギャロン女史 征服されない精神力

ヘレン・ケラー女史の自叙伝の中には、
目と耳が不自由な方との交流のお話がいくつか記されています。
当時、こんなにも目と耳が不自由だという方が多くいらっしゃって、
決して有名ではなかった方々も、それぞれがしっかりと
ご自身の人生を生きていらっしゃったことに、驚きと敬服の気持ちで
いっぱいとなりました。

その中で今日は、へレンと長く文通して交流を深めたフランスの女性
バース・ギャロン女史のことを取り上げたいと思います。
ギャロン女史はある時、自作の詩をヘレンに贈られました。
ヘレンはその詩を読んで、どんな不幸が起こっても、精神の力は
征服されないのだと感想を寄せました。

その言葉から私は、20数年前、小児外科病棟で出会ったある少年と
ご両親のことを思い出しました。
その少年の精神の力も病気によって征服されなかったなぁと。


詳しくはこちらに書きました。


Lana-Peaceエッセイ
病気のお子さんとご家族のために
「征服されない精神力」
http://www.lana-peace.com/1/1-1-035.html

2014年02月14日

ヘレン・ケラー女史「両手に余るほどの可能性」

ヘレン・ケラー女史は自叙伝の中で
「両手に余るほどの可能性」が自分のもとに
毎日やってくると綴られていました。
それは信仰に基づくご自分の心の変化について
語られたものです。
何かの教義に基づく信仰といった枠組みだけでなく、
考え方とか思想、そういったもっと身近なものによっても、
人は変わり得るのではないかなと思います。
そこがきっと生物の中でも、人間に与えられた
特権のような気がいたします。

詳しくはこちらに書きました。


Lana-Peaceエッセイ
病気のお子さんとご家族のために
「両手に余るほどの可能性」
http://www.lana-peace.com/1/1-1-034.html

2014年02月13日

ヘレン・ケラー女史 選び取る幸せ

どれほど自分が努力をしても、
自分の力だけではどうにもならないことがあります。
また自分以外の誰かがどれほど努力をしても、
変えられない事実があることも確かです。

ヘレン・ケラー女史は自叙伝の中で、
「試練を自己破滅へと方向づけることもできれば、
 試練を善のための新しい力へと転換することもできる」
と述べられています。

そうした考えが導かれたのは
18世紀に活躍したスウェーデンボルグ氏の
「どんな出来事やどんな障害の中にも選択の機会があり、
選択は創造である」という教えに基づくものでありました。

※参考文献
へレン・ケラー著, 鳥田恵訳(1992)『へレン・ケラ一 光の中へ』めるくまーる

長い歴史の時間軸の中で、点として残された言葉が
結ばれて、線になり、現在につながることは
何かの形で大きな力を発揮することになると思います。
それは同時に、過去、苦しみの中から何かを学び取られた方の人生が
輝きを得る瞬間のような気がいたします。

ヘレンの言葉について、こちらに詳しく取り上げました。



Lana-Peaceエッセイ
病気のお子さんとご家族のために
「選び取る幸せ」
http://www.lana-peace.com/1/1-2-021.html


2014年02月04日

わくわくの毎日が生み出す幸せ ネブラスカの盲学校の少女


「自分は毎日新しいことを勉強するのに忙しくて、
とても自分の不幸なんか考えている暇がない」

これ、どなたの言葉だと思いますか?

約100年前、アメリカ ネブラスカの盲学校に通っていた
13歳の少女の言葉です。

ヘレン・ケラー女史と文通していたので
少女のお手紙の一部がヘレンの自叙伝に残されています。
(ヘレン ケラー著, 岩橋武夫訳(1966)『わたしの生涯』角川書店, p.407)

こんな風に生きていけるって
すばらしいですよね。
生きる力がみなぎっているし、潔いし…。

その少女はやがて素敵な女性になりました。
詳しくはこちらに書いています。


Lana-Peaceエッセイ
病気のお子さんとそのご家族のために
「わくわくの毎日が生み出す幸せ」
http://www.lana-peace.com/1/1-1-032.html

2014年01月30日

ヘレン・ケラー女史 知識の断片が、思想の真珠に変わる時

ヘレン・ケラー女史がアン・サリバン先生から受けた教育を回想して
「人の拾い集める知識の断片が、同じ変化をうけて思想の真珠になる」
という言葉を残しています。
(ヘレン ケラー著, 岩橋武夫訳(1966)『わたしの生涯』角川書店, p.45)

こんなふうに読み替えることができるのでは?と思いました。
「お子さんが病気を通して得られた経験の断片が、
          変化をうけて真珠のように人間性が育つ」
病気という事実を変えることは容易ではないけれど、
お子さんが病気であることを通して得られた経験が
いつかお子さんの人間性をより高いものへと成長させる真珠の層のように
なりますように…と願います。


詳しくはこちらに書きました。


Lana-Peaceエッセイ
病気のお子さんとそのご家族のために
「経験が作り出す自分」
http://www.lana-peace.com/1/1-1-031.html

2014年01月27日

ヘレン・ケラー女史 プロセスの全体を補う力

ヘレン・ケラー女史は美しさを感じることについて、
自叙伝の中で次のように記しています。
--------*--------*--------*--------*--------*--------*--------
「美・秩序・形状・均整といった要素は盲人であっても触知できる」
「その美しさやリズムは感覚よりもっと深い霊的法則からきている」

引用文献:
へレン・ケラー著, 鳥田恵訳(1992)『へレン・ケラ一 光の中へ』
めるくまーる, p.159
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美しさや何か深いものを感じる力というのは
感覚器が健康であれば良いというものではないということ、
あらためて考えさせられるとともに
目や耳の不自由なお子さんが美をもっと知ったり、
感じたりする機会を得られるよう支援するとは
どういうことなのか、考えるきっかけとなりました。
プロセスの一部を補うことによって
プロセス全体のバランスが上がってくるのではないかと…。

詳しくはこちらに書きました。


Lana-Peaceエッセイ
病気と一緒に生きていくこと 
「深いものを感じる力」
http://www.lana-peace.com/1/1-1-030.html

2014年01月24日

ヘレン・ケラー女史 夢にも思わなかったような存在が花開く

病気のお子さんが思春期を迎えるようになると
自暴自棄になったり、
将来に対して無気力になったり…という変化が
起こってくるかもしれません。
ヘレン・ケラー女史が中途失明の方を例に挙げて
記された言葉の中に、こんな言葉があります。
--------*--------*--------*--------*--------*--------*----
「それでも、本人がどう思おうと、
 彼を励まして前進させなければなりません。」

 へレン・ケラー著, 鳥田恵訳(1992)
 『へレン・ケラ一 光の中へ』めるくまーる, pp.192-193
--------*--------*--------*--------*--------*--------*----

抑うつが強いときには励ましてはいけないと言われます。
でもヘレンはどうしてそういう言葉を記したのか。
それはその中途失明した方への深い愛情に基づく言葉でした。
自分の可能性に気付くための言葉といえるかも知れません。

詳しくはこちらに書きました。



Lana-Peaceエッセイ
病気のお子さんとそのご家族のために
「絶望の中で対峙する心」
http://www.lana-peace.com/1/1-1-028.html

2014年01月21日

ヘレン・ケラー女史 「伝える」ということ

昨日、偶然なのですが
エスカレーターで耳の不自由な女の子に出会いました。
その姿は屈託なくて、弾んでいて、神々しくて、
自分の心があたたかくなるような思いがいたしました。
ヘレンもこのようなお子さんだったのかもしれません。
こちらに書いています。

Lana-Peaceエッセイ
病気のお子さんとそのご家族のために
「ポニーテールと弾む心」
http://www.lana-peace.com/1/1-1-026.html

2014年01月20日

ヘレン・ケラー女史とジョン・ヒッツ氏

人生の中で、ある人の出会いが大きな転機となり、
飛躍をもたらすきっかけを得ることがあります。
13歳の少女だったヘレン・ケラー女史が
当時、耳の不自由な方のための情報を集め、配信し、
雑誌を発行する機関「ヴォルタ局」の局長であった
ジョン・ヒッツ氏と出会ったことは
まさしく「準備ができたときに師に会える」
とでも言うべき出会いだったのだと思います。

今日はこちらのエッセイで取り上げています。


Lana-Peaceエッセイ
病気のお子さんとご家族のために
「私が理解するあなた あなたが理解する私」
http://www.lana-peace.com/1/1-1-025.html



Lana-Peaceエッセイ
先だったお子さんとご家族のために
「続く命と再会の希望」
http://www.lana-peace.com/2/2-3-014.html