本日、新宿ピカデリーで上映された
『ザ・テノール 真実の物語』に行ってきました。
この映画は韓国人テノール歌手 ベー・チェチョル氏(배재철, Bae Jaechul)の
甲状腺がんの手術に伴う声帯部分麻痺、横隔神経麻痺から
奇跡とも言えるような復活を遂げたその道程を映画化したものです。
チェチョル氏の自伝は読んでいたので、大体の大筋は存じ上げていましたが
映画による再現は非常に迫力迫るものがありました。

最近の映画はなぜだかわざとらしかったり、受け狙いだったり
奇をてらったセリフや場面設定で
見ている方がどうにも冷めてしまうようなものが多くありますが
この映画は、最初から最後までが、真摯な態度や温度感が
ひしひしと伝わって来るような映画でした。
ユ・ジテ氏が演じるチェチョル氏の苦悩、
そして夫を必死に支える妻を演じるチャ・イェリョン氏の演技、
ビジネスパートナーとしてだけでなく、一人の人間として、
チェチョル氏に体当たりでぶつかる音楽プロデューサーを演じる伊勢谷友介氏
そこには、まるでこれが演技の世界とは思えないような
緊迫した、真実があるように思えました。
現代の医学の常識ではさじをなげられるような状況から
這いあがったチェチョル氏と奥様。
映画の中で、一枚のレントゲン写真が出てきます。
おそらく素人の方でも、その胸部レントゲン写真は
左右の黒い部分の大きさが、随分違うことが
強烈に印象付けられると思います。
黒い部分すなわち含気の部分が
右は左肺の1/3も、ないのです。
あのような肺活量でオペラを歌うということが
どれほど大変なことか。
その帰り道、絶望的になって一人で町の中を彷徨うチェチョル氏に
妻がメールを送ります。
「Your life belongs on the stage」
そのメールにチェチョル氏が返します。
「I want to be on stage」
「挫折」とはその道を不本意に閉ざされてしまうような
状況、事態が発生してやむなく身の上に起こるように思っていましたが
この映画を見て、それは違うと思いなおしました。
自分自身に諦めを持った時、それが「挫折」の瞬間なのだと思いました。
希望や夢を持つ限り、何かをつかみとっていけるのだと。
「奇跡のテノール」そう称されることはまさにその通りだけれども、
その「奇跡」とは、決してある日突然何か神から力を授けられて
状況が改善した、一変した、といったことなのではなく
空気が漏れるような声だったところから、
不断の努力で慈愛に満ちた歌声へと変えて行った精神力と実行力を
チェチョル氏が持ち続けたこと、
それが「奇跡」と言えるものではないかと思いました。
きっと世代を問わず、どなたであっても
人の心の中に大きな一石を投じ
その琴線に触れる映画だと思います。
新宿ピカデリーの発券担当の方によると
上映は今週金曜日までとのこと。
せっかく上映がはじまったばかりだというのに、残念です。
ぜひ、いろいろなところで長く上映してもらいたいと思います。
圧倒されるような派手なCGなどないけれど
美しいカメラワークは登場する俳優の表情がとても効果的に切り取られています。
また台詞の音声も良質で、しんとした沈黙の間さえも、印象的な音の記憶となります。
決しておもしろおかしい時間を過ごせるような、楽しい映画ではないけれど
中学生、高校生、大学生そういった人生の始まりの時期に
見ておくべき映画と思いました。
なぜなら、そうした若者たちがいつか年をとって
無感動になったり、惰性で日々を送ったり、
言い訳ばかりして、物事を諦めるようになった時
遠い昔、学生の頃に見た映画の一場面によって
自分の心を必ず救ってくれる時が、きっと訪れるから。
12月、東京オペラシティで行われるリサイタル、
チェチョル氏の生の歌声が、本当に待ち遠しいなあと思います。