2018年07月30日

こどもにとっての病気の受容

自分の意思に反して他者にわかってしまう症状、
それが自分の命に係わるようなものではなくて
身体的な痛みやしびれなどを伴うわけではなくても
本人には非常に精神的な苦痛を伴う場合があります。

そして現代医学でその治療法がまだない、ということは
すなわち、ずっとその症状と共に
生きていかなければいけない、ということです。

ある方は幼い頃からその症状を周りから揶揄され
そのたび何とかその場をごまかしたり、嘘をついて
どうにかこうにか、切り抜けていたそうです。

でも段々成長するにしたがって、
そういう自分が嫌になったのだそうです。
そこでどうしたのか?
新しく出会う人たちには
自分はそういう症状があることを初めから
伝えるようにしたのだそうです。
もし気に障ったらごめんね、って。
そうしたら、心の負担が随分軽くなったのだそうです。

自分がそう切り出して
それでもなお奇異な目を自分に向けて
心ない言葉を投げかけるようであれば
もう、その人はそういう人なんだ、って自分の中で線引きして
それ以上自分の心を波立てないようにしたのだそうです。


その話を聞いた時、
何だかとっても切ない気持ちになりました。
幼い頃から、随分苦しい思いをしてきたんだなあ。
そして多感なティーンエイジャーになって
自分を偽る自分自身を嫌になって
自分なりの解決方法を編み出したその当時の姿を想像すると
何だかこっちまでホロリともらい泣きしてしまいそうだった。

そういう時間の積み重ねを経て
その方はとても強く、優しく、懐の大きい人間になっていきました。

人間誰しも人知れず思い悩むことは多々あるはず。
自分の力だけではどうしようもできない状況、
その中で立ち止まるだけでなく、引きこもるだけでなく
自分はなんて不幸なんだろうと自分の身を嘆いたり
周りを恨んで暮らすのではなく、
自分なりに考えて、一歩抜け出して歩む人がいる。


この世界、同じ時間を生きている人の中に。
そういう人がいる。


その事実はとても、大きい。
そう思いました。

誰かに教え諭されたわけでなく
その方が自分で見つけ出した自分なりの方法。

こどもの心は大人なんかよりも遥かに強靭で
たくましいのかもしれません。
決して侮ってはいけない。

そういう人にもっと光が当たるべきだと思います。
そういう名もなきヒーローに。
そして今よりももっとたくさんの
幸せがその方に訪れてほしいと思うのです。

2018年07月25日

「しょうがない」は前進するための大切な一歩

お子さんの治療、なかなか期待するような成果が見えなくて
親御さんは意気消沈……そういう時は多々あります。
そんな時にパートナーが「しょうがない」って言ったら
きっと多くの方がカチンと来ると思います。
「しょうがない」って何よ!
「しょうがない」ですまさないでよ!
「しょうがない」それどういうこと?真剣に考えてるの?
そう言いたくなることでしょう。

でも実は「しょうがない」の裏にはものすごく大きな思考があるかもしれない。
いろいろ考えて、親がどんなに心を痛めて、努力しても
それだけでは状況が改善できないこと、があるのです。
いつか改善するのだけど、時間がかかること、があるのです。
それを待てるか、待てないか。
待つ、それは簡単なようで実はすごく難しい。
そういう時、パートナーの発する「しょうがない」には
「今はしょうがない、だけど
 いつか我が子は元気になるから、その力を信じて、待とうよ。」
そういう決意が秘められていることもあるのです。

あるお父様のお話を伺ってそう思いました。

「しょうがない」
そう心の中で折り合いをつけることは
心の中に立ち込めている霧をはらって
時間がかかっても我が子の回復を信じよう、
そう気持ちの方向性を切り替える始まりなのだと思いました。

2018年07月23日

距離を置くことで自分を取り戻せた母

無事出産してホッとしたのもつかの間、
お子さんが体調悪くてNICUに入って
いろいろ検査などが進められるとき、
ママの気持ちは非常に不安定になっています。
話す本人は特に気にも留めていないような言葉に
とても心が傷ついたり
相手が心を寄せて、発してくれたいたわりの言葉に
とても悪意を感じてしまったり……。
普段だったらありえないような思考に陥って
周囲との対人関係がとても悪くなることもあります。
たとえそれまで非常に仲よく過ごしてきた
嫁姑関係であっても、
姑の優しい言動が耐え難いほど
辛くなることもあります。

あるお母様、そうした状況に陥って
暫く周りと距離を置いたのだそうです。
そして検査していくうちに発覚したお子さんの
病気や手術…いろいろなことを
ご主人とお子さんと共に乗り越えていきました。
やがて半年くらいかけて姑さんとも
元の通り、とても仲の良い間柄に
戻れたのだそうです。


ある日突然、非日常の緊急事態に突き落とされた時
人はそれまでの自分と違う感情、行動に走ってしまうのは
自然な心の流れです。
ですから、本来ではない自分に戸惑い
自分でもそれをどうコントロールしていいか分からない時は
周りと少し距離を置くのは得策だと思います。
それは逃げている、のではなくて
自分の立ち直るための力を養う機会を確保しているのですから。
だけどそれをもしもあなたが「孤独」と思うのであれば、
自分とはプライベートな利害関係のない
誰か新しい関係(例えば病院のスタッフとか)の中で
新たな結びつきを見出せばよいのだと思います。

そうして自分も時間と共に心が丈夫になっていった時、
また元の周囲の人間関係の中へと
少しずつ足を踏み出していけば良いのだと思います。
あるお母様のお話を伺ってそう思いました。


新しい治療、きっとうまくいく。
ママがたくさんの苦労を乗り越えて
あなたのことを看病して、見守ってきたのだから。
強くなったママと共にあなたも一緒に頑張れるよね。
お兄ちゃんもお姉ちゃんも
あなたが元気になりますようにって
みんな、おうちで待っているよ。

2018年07月19日

こびとさんと時間を味方につけること

新しく始まった治療、
お子さんの治療は進んでいくけれども
親の期待よりもお子さんの回復速度がゆっくりだ、
ということはよくあることです。
面会に来る親御さんはきっと
もどかしい気持ちでいっぱいでしょう。

でもそんな時は小さなこびとさんたちが
必ず元気になれるますように、と
身体の隅々まで走り回って
あっちにいって、こっちにいって
身体の細胞を治している、
そんな風に思ってほしいのです。
こびとさんたちは小さいからそんなに大きな仕事はできないけれど
だけど、すごく働き者。
だから時間はかかっても元気になれます。

心の中でこびとさんと時間を味方につけましょう。
こびとさんと時間は必ずお子さんの味方になってくれるから。


ママ、あなたのお子さん、きっと元気になる。
そして今はあなたの気持ちをメンテナンスすることが
すごく大事になります。
こびとさんの働きを待てるように。
あなたの心が折れないように。

2018年07月16日

自分は大黒柱だから ――そう気づいた父の自覚

お子さんが命に係わる重い病気だと医師から告げられ
何が何だか、もう頭の中はぐるぐるして
今迄の生きてきた人生の中で
一番衝撃的で辛かった、と語ったお父様。
最初の頃はお子さんの話を誰かにするたびに
涙が溢れ出てしまっていたそうです。

でも、心の内を話して、自分を理解してもらうって大事ですね。
彼はお兄様とお話をして、ようやく自分の道が見えてきたそうです。
自分は一家の大黒柱なんだってことに
気付いたそうです。

いつも自分が泣いてばかりじゃ
妻やこどもはどうしていいかわからないと。

大黒柱なんだからしっかりしないといけないって思ったそうです。
誰かにそう諭されたのではなくて
自分でそう、答えを見つけていったのですって。

もちろん時には自分も泣きたい時もあるけれど。


人はたまりにたまった感情をまずは吐き出したら
新しいモードに切り替われるのかもしれません。
そして奥様とお子さんへの愛情は
もう言葉にし尽くせないくらい深いものだから
新しいモードが「頑張るぞ」っていう覚悟のモードへ
つながったのだろうと思います。

そのひたむきな一生懸命さはとても迫力がありました。
そして同年代、まだまだフラフラして
自分の立ち位置さえ見つけようとしていない人が多い中
そんな風に生きているお父様のことが眩しく思えました。



新しい治療、きっとうまくいくよ!
あなたのパパは、あなたが元気になるために
いろいろな力を貸してくれる。
そしてあなたが小さな身体でこれまでどれほど頑張ってきたか
あなたのパパは、ずっと見守って、知っているよ。
これからの治療、安心してパパとママと一緒に頑張ろうね。

2018年07月14日

「今」を生きているのだから――不安に駆られた日々から笑顔を取り戻した父親

我が子の誕生、初めての育児に忙しくもあり、
元気に育っていることを喜んでいた矢先
医師からお子さんが重い病気だと言われ
今迄聞いたこともないような病名を告げられた時
親御さんの気持ちはパニックになり、
次々と湧き出てくる得体の知れない不安に
潰れそうになる……そんな時、どうすれば良いのでしょう。

あるお父様、これから先のことを考えたら
とにかく不安で仕方なかったのだそうです。
未経験の道。何が起こるのか、どんなことが待っているのか。
考えるとどんどん不安ばかりが募ってきたそうです。
でも、ある日、思ったんですって。
今、目の前にあることに集中しようって。

起こるかどうかもわからないことに
心悩ませる時間があるなら、
今やるべきことに時間を使おうと。

誰かにそう言われたわけではなくて
自分でそう気付きを得ていったのだそうです。

なぜ?

その問いにお父様は静かに答えてくれました。
あんなにも、あれもこれもと自分で考えていたけれど
それまで不安でいろいろ頭のなかで考えたことが
実際にすべて起こってきたわけじゃないと。
あ、そうか、と。
自分でそう気付いたのだそうです。

そして我が子が頑張っている姿が
自分を「今」に引き戻してくれたんですって。
ありもしない未来にふわふわ漂って不安に駆られる自分を
まさにこの現実である「今」に。

物静かで、穏やかで、とても優しいお父様。
だけど心の内ではたくさんの葛藤があったのだなあ。
そしてその一つ一つを経ることによって
更に一段高みに登ってお子さんと一緒に頑張れている。


新しい治療きっとうまくいくよ。
心の強さを得たあなたのパパは
ますます優しさを倍増しているからね!
そしてあなたが頑張っているのをいつもそばで見守ってくれてるからね!
だから安心して、新しい治療と共に元気になろう!


2018年07月11日

「うちの子はかわいそうな子じゃない」――子の姿から大きく変わった父

生まれてまもなくお子さんが重い病気とわかり
長い入院生活、数度にわたる手術などを経験すると
お子さん本人や親御さんは周りから
「かわいそう」「かわいそうに…」そういう言葉を
かけられることが多いだろうと思います。

励ますつもり、心を寄せるつもりでかけた
「かわいそう」「かわいそうに…」
だけど、それがお子さんやご家族の心を
傷つける場合もあるかもしれません。

どんなに大変な状況でもお子さんは頑張っているのだから。
それを「かわいそう」という形容をされること自体
こどもに失礼なんじゃないか?と。
あるお父様はそうお話してくださいました。

一生懸命頑張る我が子に憐れみの目を向けられるのは
「それは違うぞ!」と思うようになったそうです。

健康なお子さんに比べて何倍も大変さを抱えて
それでも頑張って生きているお子さんは
健康なお子さんよりも遥かにたくましい底力と
力強さを兼ね備えたお子さんなのだから。
「かわいそうに…」そう涙するのは
もうやめたそうです。
そして、いろいろな大変なことがあっても
お子さんと奥様と一緒に頑張って乗り越えていく覚悟を
しっかり決めたそうです。


そう語る彼の笑顔は
清々しくて、とてもさわやかでした。
何度も何度も流した涙、
最初の頃はお子さんの病気が
あまりにもショックで、涙なしでは語れなかったそうです。
その彼がこんなに大きく変わっていった。

衝撃の大きさに立ち止まってしまう、
それはもちろん自然なことではあるけれど
機が熟した時にそこから変わっていこうとする強さは
きっとお子さんがくれたのだと思う。
毎日頑張って生きてきたそのお子さんの姿が
父の心を大きく動かしていったのだと思う。
そして奥様も夫の決意に賛同して
より一層強くなってくれたそうです。
うちの子はかわいそうな子なんかじゃない、と。

頑張れるすごい子なんだものね。
まだまだ小さなこどもなのに。
すばらしいぞ!
大人だったらへこたれてしまうことも
こどもは立ち向かっていける。


新しい治療、きっとうまくいく!
こんなに力強いパパとママと一緒にね。

2018年06月30日

過去の苦しさや悔しさが心の強さを生み出すこと ―ある母親の話から

なぜか若い頃から周りの気の強い人たちから
ストレスのはけ口の対象にされて
理不尽なことを言われたり、
不愉快な思いになるようなことを
たくさん経験してくると
本人は自分が人として何か欠けているんじゃないか?
みたいに思うこともあるかもしれません。
そのうち自分に自信が持てなくて、
自分なんか、もう……
そんな風に思って過ごすこともあるかもしれません。


周囲の人的環境って
ある意味、不可抗力的な部分もあるのだろうと思います。
なぜなら他人はなかなか変わるものではないから。
だけど「自分ではどうしようもない、できない」
そういう状況を何度も経験して耐えてきた人は
人知れず逆境に対する強さを
養われていくのだろうと思います。

本人はまったくそれを自覚していなかったとしても。
そして、それが思わぬところで役に立つことも
あるかもしれません。
たとえば十数年後に……。

あるお母様のお話を伺ってそのような印象を持ちました。
若い頃、悔しい、苦しい経験をたくさん味わったからこそ
その後訪れた我が子の重い病気という苦境が
突然やってきた時、
へこたれない強さを発揮できたのだと思います。

健康で元気いっぱいのお子さんが生まれて
周りから「幸せね」って多くの祝福をいただいても
産後の女性の中には、抑鬱状態になる方もいらっしゃいます。
まして、喜びいっぱいのはずの時に
いきなり我が子が瀕死の状態だなどと言われたら
自分の精神状態を保つこと自体が難しいのです。
自分のことでいっぱいいっぱいになってしまう、
それは自然なことだと思います。

だけど彼女は頑張るぞって思った。
自分のことは横に置いて
まずはNICUで頑張っている我が子に会おうと
面会に通う日々。

それは若い頃、胸が締め付けられるような思いを
何度も何度も経験してきたからこそ
その苦境に耐えられたのだと思う。


十数年前の苦しさは、彼女の頑張れる強さを生み出していました。
どうか自分に自信を持って行ってほしいと思う。
次々と我が子に訪れる難関を
ご主人と共に歩んで受け止めて、前に進んできた
そのあなたの強さを、どうか忘れないでほしいと思う。


あなたは他人から
不躾に軽んじられたり、貶められたりするような
そんな存在ではないのだから。


赤ちゃんの新しく始まる治療、きっとうまくいく。
今迄頑張ってきたあなたと共に。

2018年06月29日

医療に対して信頼を寄せる時

突然、お子さんが具合が悪くなり
それまでの生活の中ではまったく縁のなかった
医療の世界の中に足を踏み込んだ時、
親の立場で迫られる決断事がたくさん出てくると
それだけでもう親御さんは圧倒されてしまうかもしれません。
事の重大さに押し潰されそうな時、
親の自分の方がそのような状況から
逃げ出したくなると思うかもしれません。

そういう時どうすれば良いのでしょう?

あるお母様は医師と信頼を築くようにしたそうです。
もちろん初めて会う人ばかり。
複数の医師から話を聞く時、
A医師、B医師、C医師、D医師……
それぞれの話を理解しようとする時、
その医師の醸し出す雰囲気によって
自分の理解がかなり左右されることもあるかもしれません。
圧倒されるというか、流されてしまうというか。
そのために話の内容を理解した「つもり」でも
きちんと理解しないまま終わってしまう、
そういうことだってあるのです。
そこで彼女が大事にしたのは信頼でした。
「この医師に自分は信頼を寄せることができる」
そう思うと、話の理解を進めていくことができるのでした。
「我が子だったら、あなたはどういう選択をするのか?」
あえて医師にそう尋ねるのだそうです。
そこで「他人事」ではなく我が家の一大事として考えて、
一人の人間としての個人の意見を真剣に答えてくれる
医師の話を彼女はきちんと聞くのだそうです。
それは更にその医師への信頼を増すことにつながるわけですが。

お子さんと家族がポーンと病気の世界に放り込まれた
そんな風に捉えてしまうと
あまりに孤独で、あまりに不幸に思えてやりきれないですが
そういう病気の世界に、その道のプロとして頑張ってきた医師が
一緒に頑張ってくれるという発想を持てることは
自分の心をより広く開放できることにつながるのだと思います。

2018年06月27日

きょうだいを亡くしたこどもの受け止め

きょうだいを亡くしたお子さんが
「死」をどう受け止めているのか、
それは気になるところだろうと思います。
「何歳くらいになるとこういう認識ができて…」
そういう風に書いてある本もありますが
本当のところは
親が死に対してどういう価値観を持って暮らし、
こどもに接し、話しているか、
それによって随分変わってくるような印象を受けます。

お子さんが長く患った末、亡くなったおうちの場合
きょうだいはそれまでの生活の時間を通して、
自分のきょうだいの弱っていく様子を
知る機会を得ていきます。時間を十分かけて。
一方、ずっと普通に暮らしていたけれども
ある日事故や災害で突然、日常の時間の中から
お子さんが旅立ってしまった、というおうちもあります。
そういう時は遺されたきょうだい云々よりも
親御さん自体、我が子の死の受け止めができない…
あるいは「受け止め」なんて、そういう言葉で語れるような
そんな状況どころでない、と言った方が正しいかもしれません。


いくつかのおうちに関わらせてもらううちに
自分で感じてきたことは
「亡くなっても、今迄とは違った形でそばにいるんだよ」
そういう風に親が説明しているおうちの場合
小さいこどもたちは自然にその話を受け容れて
日常生活を送ることができるようです。

こどもの方がそれは柔軟かもしれません。
なぜなら、特に小さい年齢の頃は
親の発言は「絶対的」な信頼を寄せているものですから
その親がそう言うのだから、
それは間違いないことだろう、と。
こどもの中にスーッと入っていくのだろうと思います。

親には見えていなくても
幼いこどもの場合は亡くなったきょうだいの魂・霊が
見えていることがある、という理由もあるかもしれませんが…。

今迄とは違った形で亡くなったきょうだいとどうつきあっていくか、
それはその子、その子によって違うのは当然です。

あるお母様がおっしゃっていました。
そのおうちはかつてお兄ちゃんが妹にたくさん
本の読み聞かせをしていたのだそうです。
そして妹が亡くなった後、
お兄ちゃんは当時の本をまた手に取って
一人で読んでいる時があるのだと。

そうなのか……と思いました。
本を読むお兄ちゃんの背中姿を思い描いたら
ジーンとしました。


いろいろな形で人は過去の想い出に遡り
亡くなった大切な人を悼むのだと思います。
きょうだいと過ごした時間が現実のことだったのか、
それを確認する意味もあるのかもしれません。
大人が考える以上に、実はこどもの心は遥かに
大切な人の死を受け容れるための工夫を
自然に試みているのだろうと思います。

テレビばっかり見て、もう!とか
マンガばっかり読んで、もう!とか
あるいは、こどもがダラダラしてすごしているとき
本人にとって本当は自発的な悼む時間かもしれません。
かつて、そうやって共にきょうだいと過ごした時間を思い出すために。

そうした何気ない時間の積み重ねによって
こどもたちは自分の記憶の中に
きょうだいの死を自分流に留めていくのだろうと思います。

2018年06月25日

「どうしてそんなにドライなの?」 そこに隠れていた父の本当の気持ち

お子さんが亡くなった後、親御さんの間で感情のずれを
感じる方もいらっしゃることでしょう。
あるお母様はご主人の様子がどこかドライな感じがして
「どうしてそんなに簡単に割り切れるの?」って違和感があったそうです。
自分は涙が溢れて仕方がないというのに……。

しかしある日、ご主人にそれを尋ねた彼女は
そこに隠された大きな意味に気付くこととなりました。
ご主人は自分が気持ちを切り替えなければ
家の中が立ち行かなくなる、そう思ったからだそうです。

家には専業主婦の妻とこども。
その生活を経済的に支えるのは働きに出る自分。
生き残っている家族を支えるのは自分だ、
その責任感をしっかり果たすためには、
自分ができることはまずは働くことだ。
そのためには悲しむばかりではいられない。
そう彼は思ったのです。
ドライに割り切ったような印象を与えるような振る舞い、
それは自分自身を鼓舞する意味もあったのかもしれませんね。

彼女はそこからご主人の心の中の本当の悲しみや
家族に対する深い愛情を改めて知ることとなりました。
そしてこれまで以上に相手の気持ちを推し量るようになりました。

良いご夫婦関係だなって思いました。
お互いがそれぞれの役割をしっかり頑張って果たして
お互いを認めて支える、
それが前進のための一歩なのだなと思いました。

彼女がもしご主人に尋ねなければ、ずっと誤解したままで
不信感が募っていたかもしれません。
話すって大事だなって思いました。

2018年06月23日

「お子さんは何人ですか?」 その問いに戸惑う時

あるお母様とのお話の中で
「そうなのか……」と思ったことがありました。

お子さんが亡くなった後、新しく出会った人に
お互いを知るという意味で
話の流れの中で「お子さんは何人ですか?」って
尋ねられることありますね。
でもそういう時、これからつかず離れずといった距離感で
ある期間(例えば学校のPTA活動とか)
お付き合いが必要な人との間では
どう答えるべきなのか?

これまでお子さんが2人で、例えば下のお子さんが
病気で亡くなってしまった時、
「うちは1人です」と答えるか。
「うちは2人です」と答えるか。

お子さんが亡くなったこと、病気だったことを
全く知らない人に、そういう話を深く詮索されたくない、
そう思う気持ちは当然のことだろうと思います。
なぜなら相手の不用意な言葉に
心が深く傷つくことがあるから。
たとえ慰めの言葉をかけられても
それがストレートに心に優しく染み入るわけではないから。

だから彼女は初めから「1人です」と言う時もあるのだそうです。
そしてその時、亡くなったお子さんに
ごめんね、って心の中で手を合わせるのだそうです。

自分のこれまでたどってきた時間を話して
そこで何か心が通い合うものを感じられる、
そう思える人だったら、2人って言えば良いのだと思います。
でも辛い気持ちを掘り起こされて、
自分でもその後不安定なままになってしまいそうだったら
1人って言えば良いのだと思います。

100歳も過ぎたようなお年で天寿を全うされた方の死は
「大往生でしたね」そういう会話が続きます。
でもこどもの死、それは周りの人にとっても
何と言葉を続けて良いのかわからなくなる……
それが大半なのだと思います。
何か伝えたくても、どれもこれも薄っぺらな言葉に思えて。

「お子さんは何人ですか?」
その質問によってあなたの1日がフリーズしてしまう、
そう感じる時は、何人と答えようと、
あなたの心の思うままで良いのだと思います。

2018年06月22日

信念がどん底から引き揚げてくれる ―娘を亡くした母の強さ

お子さんが亡くなった後、視覚的に確認できる身体がないことは
本当に「寂しい」ものです。
いつも通っていた病院、長く過ごしていた病室
そこに行っても会えない現実。

でもあるお母様がこうお話してくださいました。
「肉体はないけれどそばにいる。だったら楽しく過ごそうと思う。」
今この瞬間も、いつでもそばで見守ってくれているんだ…
そばにいる、彼女は真剣にそれを信念として
心の中にしっかりと打ち立てていました。
そしてそれが見事に彼女の気持ちを変えていったのです。

亡くなったお子さんの立場から考えてみれば
「こんなに近くにいるのに、どうしてママは悲しい顔してるんだろう。
ママはどうして私の事わからないのかしら?」
そう思ってしまうものね。

そしてそれは共に生きているごきょうだいも同じこと。
いつまでも自分が日々悲しみのモードで送ることは
まさに今ここに生きているお兄ちゃんの存在を
ないがしろにしてしまうことになるから。
「ねえ、僕はここにいるのに。僕って一体何なの?」
そう寂しく思ってしまうものね……。
こどもだって自分の存在を否定されたような気持ちになるものね。
どんなに小さくたってわかるもの。


自分の悲しみを全面に出し続けることは
自分がお兄ちゃんの人生を犠牲にしてしまうことにつながる、
そう思った彼女は悲しい気持ちはあるけれど
でも、日々楽しく過ごせているよ、と
言えるように変わりました。
亡くなったお嬢さんもそばにいるし
そしてまさに今生きているお兄ちゃんもそばにいるし。
共に泣いてくれて、そして共に生活に楽しさを見出してくれる
ご主人もいるし。


人間の心は複雑なもの。
いろいろな感情が同居して、刻々と変わりながら生きている。
でも、何か信念の柱をしっかり心の中に打ち立てると
その後の進む大きな道、その方向性が決まるのだと思う。

他人がその信念をどう思おうと、そんなことは関係ないのです。
悲しくても苦しくても、彼女は今世の天寿を全うするまで
彼女の人生は続いていく。
その中で、娘が夭逝したこと、その事実が
彼女の人生を暗転させたきっかけとして
このまま自分の人生を過ごし、終えるのは
とても耐え難かったのだと思う。

それは自分が辛い、そういうことではなくて
娘があまりにも気の毒だから。
自分が悲しみすぎることは
娘を親不孝な子にさせてしまうから。
お嬢さんは親不孝な子なんかじゃない。
彼女にいろいろな気付きと学びと
たくさんの愛情を与えてくれた
素晴らしいお嬢さんなのだから。

彼女に昨夏お目にかかったときは
もう彼女の心が擦り切れてちぎれてしまうのではないかと思うほど
とても限界にきていたけれど、
先日お目にかかった時は、生きるエネルギーが甦ったようでした。
彼女は今では誰か同じような境遇の人の力になりたいと
思うようになったそうです。

それは彼女が信念と共に
そして魂の形で自由になったお嬢さんと共に今生きていると
彼女が実感していることが大きいのだと思いました。


心が散り散りになるほどの苦しさを経た彼女は
本当にまぶしいほどに美しかったです。

きっとお嬢さんが彼女の進む道に光を照らし
彼女はそれをしっかり受け取って歩んでいるからだと思います。

2018年06月20日

赤ちゃんが証人になって教えてくれるこどもの死後の安寧

お子さんが亡くなった後、
そばに姿が見えないのは本当に寂しいですね。
いつも聞こえていたはずの呼吸器の規則的な音が聞こえないと
静かすぎて落ち着かない、そんな気持ちになるかもしれません。
でも、亡くなった後のお子さんは
現世での身体から解き放たれ
自由自在な魂はあなたのそばで
楽しく過ごしている……
そう実感できるお話をあるお母様から伺いました。

見知らぬ赤ちゃんがなぜか彼女に微笑みかける。
そういう経験を短い間に立て続けにした彼女。
普段そういうタイプじゃないのに、
どうしてかしら?って思ったのだそうです。
その時、ご主人は亡くなった息子さんの魂がきっと
彼女のそばに居て、その魂を見える赤ちゃんが
息子に微笑みかけているんだろうって思ったんですって。

幼いこどもは亡くなったお子さんの魂が見える、って言うものね。
他人様のおうちの抱っこされている小さな赤ちゃんが
彼女に向かって微笑みかけるということは
きっと赤ちゃんの瞳には、その少年の楽しそうで
幸せそうな姿が映っているんだなあ。
ああ、良かった……。
彼が幸せに過ごせていて本当に良かった。

自分の目でお子さんの姿を確認できなくても
思いもかけない形でお子さんはお知らせしてくれる。
今迄まったくご縁のなかったおうちの赤ちゃんの
笑顔を通して教えてくれる。
ママ、心配しないでねって。
僕、今ハッピーに過ごしているよ。
ママやパパやお兄ちゃんたちのそばに
いつでもいるよって。

赤ちゃんが証人ですから。
赤ちゃんはわざわざ嘘をつく必要ないのですから。
無垢な心の赤ちゃんの笑顔を信じてみよう!

2018年06月17日

希望を育てていった母

お子さんの病気がとても重くて
「うちの病院よりもっと大きいところに行きましょう」って
入院中の病院側から転院を勧められることもあります。
特に症状が急に悪化している時は
そう聞いただけでもう心臓はドキドキなのに
新しい病院にたどり着いたら
いろいろ検査を受けるうちに
「今後のこと考えて、もっと大きいところに行きましょう」って
もう一つ別の病院へ行くことになった、という場合もあります。
急な症状の展開、追いつかない心。
信頼を築きあげるにはあまりにも短すぎる時間。
そんな中で、親御さんはいろいろな選択を迫られることになります。
不安ばかりが募って、自分の選択がこれで良いのだろうかと
自信を持てなくなってしまいます。
あるお母様、まさに不安に押しつぶされそうだったけれども
新しい大きな治療に取り組むことを決断したことをきっかけに
心を切り替えていったそうです。
不安を希望に変えようと思ったのだそうです。
すごい底力のある方だなあ……そう思いました。

不安、それは決して悪いわけじゃない。
人間の自然な心の成り行き。
でも不安に駆られることによって
気持ちはどんどん二次的に悪い方向へと
引きずられてしまうことって多いのです。
それが自分を更に苦しめることになる。

そういう状態の中で。僅かでも希望を見出せるようになると
自分の気持ちが変わっていけます。
希望、そこに寄せる期待が
自分自身の視線、それは自分の周りを取り巻くあらゆるものへの
視線を変えてくれるのです。
そのお母様は「希望を育てていく」そうおっしゃっていました。


新しい治療きっとうまくいく。
不安で押しつぶされそうな苦しみの中から
希望を見出し、育てて行こうと決めたお母様。
人間が動物と違うところはそういうところなんだと思う。

動物だってもちろん
嬉しいとか、悲しいとかそういう感情はあるだろう。
怒った、そして悔しくなった、そういう同じ系列の発展的な感情もあるだろう。
でも一次的な感情から化学反応的な思考を起こして
全く別方向の新たな二次的な感情を作り出すこと。
それができるのが人間なのだと思う。
でも決してそれはたやすいことではない。
だけどそれができる人はどんな苦境も
しっかりと地に足をつけて乗り越えていけるんだと思う。

そんなママの存在はお子さんに
何にも代え難い心強さを与えてくれるのだと思う。

新しい治療、きっとうまくいく!
元気になろうね。

2018年06月02日

子亡き後の心の穴を感謝で埋める母

お子さんが亡くなった後、
開いてしまった大きな大きな心の穴。
その穴を抱えながらどうやって生きていけばいいんだろう…
そう途方に暮れるご両親は多いことでしょう。

あるお母様、こうおっしゃっていました。
わーっと思いきり泣いた後に
悲しみで開いた穴を感謝で埋めるのだと。

感謝で埋める?
それはまずはお子さんへの感謝。
重い病気でも一生懸命頑張って生きたね、そういう感謝。
そのあなたの姿に私達親はとても心動かされたよ、そういう感謝。
そしてもう1つの感謝、それは
そのお子さんを取り巻く医療従事者達への感謝。
あんなこと、こんなこと
いろんな場面で医師が、看護師が
そして病室のお掃除で出入りしていたスタッフの人にも
心を向ける感謝。
我が子のためにいろんな形でいろんな人が
関わってくれたのだなあという感謝。

そのすべてがそのお子さんの人生を彩る
まさに1コマ、1コマだから。
それを丁寧に思い起こすことによって
穴が少しずつ埋められていくということ。

彼女からそのお話を伺った時
心の中でしとしと雨が降るような気がした。

そうかあ・・・
愛おしむように、思い出す我が子の人生。
それは短かったかもしれないけれど
そこには数えきれないほどの場面が
ちりばめられている。

彼女はご主人の選んでくれたお子さんの写真と共に
いつもお出かけするそうです。

今迄入院でお出かけが不自由だった分
こんどは身軽になったお子さんの魂と一緒に
あっちにも、こっちにも出かけて
幸せの波動で心の中を満たしてほしい。
それはお子さんの魂にもすぐに伝わるのだから。

2018年06月01日

可能性を掴み取ろうと決めた父

お子さんが重い病気と言われたら、
親御さんはどうにかして治る手段はないかと
頭を悩ますところですね。
医師からいろいろ説明を受けて、
その中で我が子には何が一番良いのか?
でもそこに副作用は、後遺症はないのか?

いろいろ、いろいろ考えて
起こる確率がほんのわずかなことであっても
心配が拭えなくて、一歩をなかなか踏み出せない。

そんな時、あなただったらどうしますか?


先日あるお父様がおっしゃっていました。
治るための選択肢があるなら
その可能性を潰したくないと。

心配を数え上げたらきりがないけれど
でもどういう状況になっても
治る希望を掲げて、みんなで一緒に頑張っていきたいんだ、と
そうおっしゃっていました。
バラバラじゃなくて、一緒に。
今迄そのお子さんを守るために
本当にご家族みんなで一緒に頑張ってきたから
ここで崩れたくないんだと。


進んでみなければわからない。
そしてもし望まないような副作用が起こっても
決してなすすべがないのではなくて
必ずどうにか軽減、好転させるすべはある。
医師は多くの努力と経験を
積み重ねてきているのだから。

そして、何より一番なのは
いくつもの大変だった状況を乗り越えて
今、新しい治療を始めようとするそのステージまで
お子さんがたどり着けたという事実。

これまでの厳しかった道のりを考えたら、
そのお子さんは限りなく、果てしなく
力強い生命力を秘めているって確信します。


新しい治療頑張ろうね。
パパはあなたのために心を決めたよ。
新しい治療と共に、可能性にかけてみようと。
ママもお姉ちゃんもあなたのことを応援しているよ。
おじいちゃんも、おばあちゃんも。
みんな、みんな。

きっと元気になるね!

2018年05月26日

良いことも、聞きたくないことも、両方消化して強くなった母

医師から我が子が1万に1人の病気だと言われても、頭の中は混乱で
とてもその事実を受け止められない……
あるお母様は赤ちゃんに、
元気な身体じゃなくてごめんね、っていう気持ち、
大変な思いさせちゃってごめんね、そういう気持ちで
いっぱいになったそうです。
でもでも、彼女は変わっていきました。
ごめんねっていう気持ちは残しつつも
どんなに赤ちゃんに申し訳なく思っても
その病気である事実を変えられないなら
自分はとにかく我が子を支えていこうって。

医学部の図書館にあるような本じゃないと、
なかなか書かれていないような病気。
だからまずはできることから、ということで
インターネットでいろいろ調べていくと
ショック受けるようなことを書いているページもあれば
親のブログなどでポジティブなことを書いている人のページにも出くわす。
彼女はその両方を知って、それを両方ずつ消化していったのですって。
両方ずつ消化。すごいなあ。。。


彼女のさわやかな笑顔には
そんなに大変な苦労を経て来たことを
微塵も感じさせる気配はなかった。
きっと苦労を自分の糧に変えていける人なんだなあ。彼女は。


赤ちゃん、あなたに新しく始まる治療、きっとうまくいく!
あんなに地に足のついたママが一緒に頑張ってくれるのだから。
そして何よりあなたのことを文字通り目の中に入れても痛くないっていうくらい
愛しく思っているパパもいるのだから。

2018年05月16日

誉命を生き抜いてお空に還っていった少年  

ずっと頑張ってきたあなたのことを
私は決して忘れないよ。

今日の東京の空は澄み渡る青空で良かった。
まぶしいくらいのお日様の光と共に。
お迎えに来た天使さんたちとの空中散歩は
楽しくなるといいなあ。

身体から解き放たれて自由になったあなたの魂は
きっとこれからうんといっぱい遊んで
ママと一緒にはらぺこ青虫の本を読んだり
パパのお膝に抱っこされたり
お兄ちゃんとお絵かきしたり、
自由に自由にいろんなことできるといいな。

ママとパパとお兄ちゃんが
これまで溢れるほどの愛情であなたのことを包んで
あなたのことをしっかり守ってきたように
これからはあなたがママとパパとお兄ちゃんのことを
しっかり守ってほしいのです。

医師から余命を告げられた最期の時間を随分越えて
あなたは頑張って、日々生きていた。
それは素晴らしい緩和医療の先生との出会いもあったのだけど
家族の愛情は魔法のように彼の命を活き活きとさせた。

誉れ高きその命、私はあなたのことを忘れないよ。

2018年05月13日

「症候群」と聞いた時、それをどう受け止めるか? ――ある若い父親の話

医師からお子さんの病気について説明を受けた時
「○○病」とか「△△△」というような
はっきりした名前のつくものもあれば
「□□□症候群」といった名前を告げられる場合もあります。
症候群とは共通する病的変化が幾つか集まっている場合に
そう呼ばれるわけですが、
定義づけに必要とされる症候のうち、
必ずしもそのすべてが揃って診断される
というわけではありません。
あるお父様はお子さんの病気の説明時
医師からある症候群の名前を告げられました。
普段の生活の中ではあまり耳にすることのない名前。
随分不安やとまどいがあったことでしょう。

でも、彼はこう考えたそうです。
「□□□症候群」と言われてもその症状のすべてが我が子に起きるわけではない。
起こっているものが、すべてのうちのいくつかであったら
ああ、すべてじゃなくて良かった、と。
それはすべての症状だったら今よりもっと重症だったかもしれないけれど、
そうじゃなくて、ああほっとした、という気持ちです。

「症候群」と聞いた時、人によっては
まるで病気の寄せ集めのように聞こえたかもしれません。
「えー、そんなにあるんですか?」って。
でも彼の捉え方は逆でした。
あるかもしれないはずだったけど、全部じゃないなら良かった、
そういう気持ちです。

彼のそのお話を伺って、すごくジーンとしました。
そうか、そういう捉え方があるのかって。

お父様がお部屋を出られた後、
思い出した話がありました。
私が20代の頃、当時盛んにCMで流れていた
某英会話学校に駅前留学してせっせと通っていた頃のことを。
奮起して通い始めた割には
自分のあまりのできなさに愕然としたり
夜勤明けの頭には、ぽろぽろ言葉が零れ落ちていったり…。
そんなある日マンツーマンで授業を取っていた時に
あるカナダ人の先生がコップのお話を始めたのです。
コップの中に水がある、それを「これだけしかない」と思うか
「こんなにある」と思うか。あなたはどう考えるか、と。
日本語でもそんな会話、禅問答のような何か思想を問われることはなかったし
当時そんな自己啓発本も読んでいなかったことから
そう言われて私はすごく衝撃的でした。
事実は変わらなくても、その事実の捉え方によって
自分の心の行方は随分変わっていくのだと気付かされたのです。

そしてこどもが「症候群」と聞かされた時の
「ああ、全部じゃない。良かった」と
思えた彼の言葉とコップの水の話が重なるような気がしました。
少しのものを、こんなにあると思ってハッピーになれるのか。
あるいはたくさん症状があっても、
ああまだ全部じゃない、だから良かったと思って
ハッピーになれるのか。

私が英会話学校で目から鱗が落ちたような思いをした、あの年代と
そのお父様はまさに同じころ。
私は人から聞いて初めてそういう考えを知ったけれども
彼は自分の口からそう発言することができた。
なんとすごい人なんだろう。

こどもの病気、それはすぐ治るものもあれば
これからずっと一生付き合っていく病気もある。
だけど、彼のような捉え方をしていけば
どういう状況になっても、その一瞬一瞬の中で
幸せを見出していけるんだろうなあ。

また若い世代から一つ、大きなことを教えてもらった。


あなたは決して派手なパフォーマンスをする人ではないけれど
あなたの寡黙で実直な姿と言葉から、
その素晴らしさは、しっかり伝わってくるよ。
奥様も、お子さんもあなたの存在にどれだけ心救われる思いか…。

新しい治療、きっとうまくいく!