2014年05月25日

小岩井農場 明治男の気概とロマン

先日訪れた岩手県 雫石町の小岩井農場ですが、
「過去への尊重と未来への尊重がある」と書きましたが
それは、最初の創立時に端を発していると言えます。

参加した「ガイド付きバスツアー小岩井農場めぐり」では
かつては語り部をやっていたこともあるというベテランのガイドさんが、
手製の絣のモンペ姿(小岩井農場創業当時に女性が着用していたそうです)で
登場して熱心に説明してくださいました。

明治21(1888)年6月、当時鉄道局長官だった井上勝氏が
東北本線の延伸工事視察のために盛岡を訪れた際、
視察の後で、網張温泉へ招待されたのだそうです。
その道が今はこんな風になっています。
(バスツアーの途中で車窓見学できます)
koiwai-1.jpg

井上氏は温泉に向かう途中その道で、岩手山南麓の姿を見渡し、
「荒れた官有地こそ開墾して、国民の為に尽くすべきだ。
後の国家公共の為になるように…」と考えたのだそうです。

これまで鉄道を作るために、本来田畑として役にたっていたはずの土地が
つぶされていたことに、心を痛めていたからとのこと。

今でこそ、豊かな緑の大地が広がり、
温泉に通じる道も緑深い林の中を抜けるような印象ですが、
当時このあたりは酸性の強い火山灰の影響で荒涼とし、
風の強い土地だったのだそうです。

肥沃な大地ならまだしも、そうした厳しい条件の場所を開墾するには
莫大な投資が必要となります。
そこで長州藩出身だった井上氏は
三菱社の社長であった岩崎彌之助氏に協力を求めたかったそうですが、
出身藩が違うため、口添えしてもらえるよう同じ土佐藩出身の
日本鉄道会社副社長 小野義眞氏に声をかけ、
何とか構想を事業化できることになったのだそうです。
「小」「岩」「井」はそれぞれの名字の頭文字を合わせたもの。

しかしながら酸性が強く、水はけが悪く、沼が多くあったというこの土地は
非常に開墾に難渋し、道を作ることさえも大変で、丸太を埋めて道を作る等、
大変多くの苦労があったのだそうです。
井上氏はこの開墾事業を8年頑張ったそうですが、
採算が合わず、井上氏は夢半ばにしてその経営権を譲渡したとのこと。
「今年こそは」と思いつつ、開墾事業を続け、成果がおもわしくなかったことは
井上氏にとって本当に大きな心労であったと思います。

あとで家に帰ってから河合 敦氏の書かれた『もう一人の「三菱」創業者、岩崎弥之助』
を読んでみると、毎年岩崎氏が約一万円投資し、井上氏が運営し、
損益は両者の折半だったそうです。
8年間の投資額73,862円に対して利益は3,386円だったとのこと。
投資額に対する利益額を見ると、いかにその事業が大変だったかがわかりますね。

一切の権限を譲渡された岩崎氏は小岩井農場での事業を牧畜中心に切り替え、
オランダから乳牛の種牛を輸入したり、乳製品の製造を始めたり、
下総御料牧場の幹部を経営責任者として抜擢し、
本格的な事業として展開していったのだそうです。

参考図書:
河合 敦(2012)『もう一人の「三菱」創業者、岩崎弥之助』
ソフトバンククリエイティブ, pp.131-132

開発する一方で、そこで失われゆくものに対する配慮を持った井上氏。
それは当時、未来を見据えた大きなビジョンがあったからこそ。
どんなに時代が変わっても、そうした姿勢は変わってはいけない大切なものだと思います。

そして、相当リスクの高い事業を丸ごと引き受けた岩崎氏。
それは不毛の土地を開墾して国民の為に尽くしたいと心に決めた
井上氏の初志(未来への尊重)に賛同したものであり、
初志が起こされた明治21年という過去への尊重だとも言えるでしょう。
採算の合わない事業を引き受けた度量の大きさは、本当にすごいものだと思います。
また経営手腕を持つ岩崎氏は、話を受けた時点で
この事業を軌道にのせるための青写真を、既に思い描いていたのかもしれません。


「明治男」とは、今では何か非常に頑固で融通が利かないような人の事を
揶揄する時に使われたりしますけれども、
明治男とは実は将来の展望を見据えて、多くの人の為に役に立つような気概ある
底力の持ち主を表すのではないかと思います。

牧歌的な風景の裏に、こんな苦節とロマンがあったとは…。
さて次回はツアーで見学した中から、「過去への尊重と未来への尊重」が
垣間見えるスポットについて取り上げたいと思います。