2020年01月13日

奥松島縄文村歴史資料館(宮城県東松島市)3)貝塚散策

奥松島縄文村歴史資料館は
「さとはま縄文の里史跡公園」の一部ですが
公園内には里浜貝塚を構成する北貝塚・東貝塚・西貝塚を
散策できるようになっています。
海が見え、山の雰囲気がしっかり残っており
当時の人々の暮らしを偲ぶ上では絶好の環境です。

実際、訪問当日歩いてみたのでご紹介いたします。
資料館を出て医王寺を目指して住宅街の中の細い道を歩き
「ここであっているのかなあ?」と思いつつ
きょろきょろしていると
看板が見えてきます。
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北貝塚:寺下囲(てらしたがこい)地点
縄文時代後半から弥生時代中期にかけてのムラの跡で
厚さ6m以上の貝層が見つかっています。
大正7-8年、北側斜面の発掘調査が行われ
この時、我が国最初の層位的発掘が採用され、
14体の埋葬人骨が発見されました。

医王寺を過ぎて海方向へ北上すると
左手に里浜貝塚貝層観察館が見えてきます。

縄文時代晩期、約2800年前の貝塚を観察することができます。
ちょうど貝塚館の北側(西畑地点)にあった地層を
樹脂で固めて剥ぎ取ったものが展示されています。
地層から季節を知ることもでき、
貝や魚が多い層は春から夏、
土の多い層は秋から冬の季節を示すのだとか。
ここには約20年間分の生活の証が凝縮されているそうです。


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そして海へ向かって下っていくと、
緑が広々とした空間が見えてきます。

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松島らしいなあと思うような風景が海の向こうに見えています。

この辺りは縄文時代から塩づくりが盛んに行われた場所でした。
解説板のイラストを見ると浜辺に穴を掘って火を焚き、
その上にのせられた海水の入った土器が
ぐつぐつ煮詰められて塩が作られたようです。
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下の写真は奥松島縄文村歴史資料館に展示されていた製塩土器です。
塩を作るために海水を煮詰める際、使われました。

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学芸員さんのお話によると日本では岩手、いわき、霞ヶ浦等から
製塩土器が出土し、中でも松島が一番出土数が多いとのこと。
製塩土器は派手な装飾のない素朴な土器ですが、
実は内側は水漏れしないよう丁寧に作られているそうです。

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海沿いの西畑北地点を後にして
丘の方へ登っていくと
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あずまやが見えてきます。
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ひと汗かいた後、ここで風に吹かれて眼下を見ると
松島湾と西畑北地点が広がります。

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この後、探検隊のような気分で進みます。
道があるようでないようで。
きっとこのリボンはここを通るようにという目印かと思って
緑の中にリボンが見えてくるとホッとします。
後で調べてみたらどうやら「宮城オルレ」という
トレッキングコースの案内用のリボンらしい。

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舗装された道ではないので脚力の弱い方はご注意を。
私が行った時は前日雨が降っていたせいか
日陰のところはかなり滑りやすくなっていました。
周りは人一人いなくて、うっそうとした木々の中を歩くと
なんだか異次元に迷い込んできたような。

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御神木のタブノキがあってほっと一安心。
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御神木を過ぎて南下すると台囲地点(西貝塚)が現れてきます。
縄文時代前期初めから中期前半、
後期初めから晩期半ばにかけて生活が営まれ
貝塚が形成されたそうです。

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ここの辺りから舗装された道に出るため少々安心。
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そして道を下っていくと、田畑や住宅地が見えてきます。
東に向かってどんどん住んでいくと
袖窪・畑中地点(東貝塚)の看板が見えてきました。
こちら縄文時代前期の初めの頃と
中期後半から後期初めにかけてのムラの跡で
中期後半にはこの広い台地を取り囲むように貝塚が形成され、
里浜貝塚で最大のムラだったそうです。

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そこからどんどん東へ直進して県道27号線へ向かって歩き
27号線を北上して縄文村へ戻りました。

数千年前にこの空の下、確かに人々が暮らしていたと思うと
何やらとても感慨深かったです。
posted by Lana-Peace at 09:55| アート / 歴史 博物館情報