2018年05月07日

角が丸いこどもの悲しみ

こどもが死をどう認識しているか、
そういうことを心理学とか死生学の本などには
まあ、いろいろ書かれているわけですが
そんな学問的な解釈が吹き飛ばされるような
お話を先日あるお母様から伺いました。
こどもの死の認識は大人の理解の「枠」をはるかに超えて
柔軟であるのだなあと気付かされるお話。

そのおうちではお姉ちゃんの生活の中に
今も亡くなった赤ちゃんの存在がしっかりあって
日常の言葉などのなかにもそれが現われてくるのだけれど
空想しているとか、死を否定しているからとか
ちっともそんな理由ではないのです。
お姉ちゃんの中ではそれがごく自然なことなのです。

大人は「見えない」「聞こえない」
だからそこに赤ちゃんがいるわけない、って思う。
でも猜疑心、邪心を持たないピュアな心のこどもには
亡くなったこどもの姿や声が
本当に感じられるのだろうと思う。
亡くなって魂の存在となって現世と異なる次元を自由に行き来している
赤ちゃんを感じられる力があるのだと思う。

そしてお姉ちゃんは亡くなった妹だけでなく
その後、残念ながら流産になってしまって
この世に生まれ出ることのできなかったきょうだいのことも
ちゃんと自分の「きょうだいだ」って思っているんですって。
流産となった赤ちゃんの魂、波動をお姉ちゃんは感じているのかなあ。

流産のこと「辛いこと、悲しいことは早く忘れたい」
そう切実に感じる大人もいることでしょう。
でもお姉ちゃんにとっては
生まれ出ても、生まれ出なくてもきょうだいはきょうだい。
だからお姉ちゃんは流産のことを
きょうだいの大切な思い出の一部として知りたがろうとする。


そのお話をお母様から聞いた時、
こどもは大人以上に死について
すごいスケールで受け止めているのだと思いました。
まだこどもの思考や理解力は未熟だから、わかっていないとか、
認識できていないとか、そんなこと言っちゃだめですね。
そもそもこどもの心の底にある哲学みたいなもの
それは大人が「こうなんです」みたいなこととは全然スタートが違うのだから。
大人が「考えが幼い」「夢物語」「まだこどもだから」
そんな風に切り捨ててしまうところの陰に
実は本質が隠れているのだろうと思います。
こどもの感性に学ぶことはとても多いのだけれど
大人になるうちにその感性をすっかりどこかに置き忘れてくると
大人はごつごつした角がたくさんある悲しみを抱えるようになるのだと
私は思いました。
そのお姉ちゃん、赤ちゃんが亡くなった時、彼女にも悲しみはあったわけです。
だけどその悲しみは角の丸い悲しみで、
そのふちは自然に周りに溶け込むようになっていたのだと思います。
なぜ角が丸い悲しみなのか?
それはお姉ちゃんの心の底にある哲学のおかげで。
だからこそ自分の人生の中で起こった衝撃的な出来事、悲しい出来事
きょうだいとの死別というそういう出来事を
丸ごと自分の人生の一部として溶かし込んで生きてこれたし
その悲しみと共に今も生きていける、そういう力強さがあるのです。

もちろんお姉ちゃんだって大変な時期があった。
だけどお姉ちゃんはそれを乗り越えていった。
そこには時間という「日薬(ひぐすり)」が大事な役割を果たしていったけれど
ただ単に時間が「薬」になったわけじゃない。
お姉ちゃんの態度、言葉、親に投げかける死にまつわる質問
それに対して親御さんがないがしろにしないで
一つ一つ誠実に向き合って対応していたことが
時間を加速的に薬に変えていったのだと思う。

幼いこども、その小さな背中からリアルにこうして学ばせてもらうものは
本当に限りなく多い。