青梅街道を荻窪方面へ向かうと
すぐそばの交差点の角に杉山公園があります。
このあたりは何度も訪れている場所だけれども
先日、公園の看板と石碑を見て、ようやく公園の由縁を知りました。
明治の実業家 杉山裁吉(さいきち)氏は令嬢みさをさんの病気療養のため、
当時自然豊かな田園風景が広がっていたこの地へ転居してきたそうですが
明治四十一(1908)年、残念ながらみさをさんは
二十五歳の若さで亡くなってしまいました。
また大正十四(1925)年、杉山夫人が逝去。
それを機に裁吉氏は当時の中野町に、邸宅と土地の寄付を申し出て
こどもたちが健やかに育つことを祈願し
ここをこどもたちが遊べる公園にするようにと希望し
親子三体の地蔵尊を彫った石碑も建立されたのだそうです。
そして昭和六(1931)年、裁吉氏が逝去。
当時の東京市は昭和九(1934)年三月、杉山公園として開園したのだそうです。
現在は広場と遊具が整備された場所で
近所のこどもたちがたくさん遊びに来ています。
裁吉氏の建立した地蔵尊のそばの石碑には
「杉山氏の血統は絶えたけれども、杉山家代々の精霊は
永くここで中野町の繁栄と住民の幸福を祈る」といった内容が記された
古い石碑もありました。
青梅街道と中野通りが交差し、マンションやビルが乱立する交差点の一角に
ぽっかり空いた公園の空間。
みさをさんが亡くなって、もう100年以上たっていますが
杉山夫妻のみさをさんへの愛情と
杉山夫妻が他人様の家庭の子に向けた慈愛はずっと永遠ですね。
なんだか目にする公園の風景と空気が
変わったような気がしました。
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