2015年02月20日

魂が心に、心が理性に、理性が体に宿り、人間ができる『ジミーとジョルジュ〜心の欠片を探して〜』、

今日はとっても良いお天気だった東京の昼下がり
アルノー・デプレシャン監督の『ジミーとジョルジュ〜心の欠片を探して〜』は
渋谷のシアターイメージフォーラムで本日が最終上映日だったので、
急いで見に行ってきました。

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第二次世界大戦の後、息をすることも苦しいほどの頭痛をはじめとする
様々な症状に悩むネイティブアメリカンのブラックフット族の男性ジミーと、
精神分析医ジョルジュの交流が描かれたものです。
フロイトの呈した概念を講義するジョルジュの姿も登場しますが、
ネイティブ・アメリカンのモハヴェ族の研究のため、
文化人類学者として2年間も彼らの砂漠で暮らした背景も持つ彼の言葉は、
単なる夢分析の精神分析なのではなくて、
一味も二味も違った深いものでした。

ジョルジュは、白人は夢から過去を導き、
ネイティブ・アメリカンは夢から未来を導くことを興味深いと言っていました。
そう考えると、単に夢分析から
「過去のこうした経験があなたの潜在意識に、このように影響を及ぼしている」
といった表現は、ある意味において不十分なのかもしれません。
社会の中で基準とされているようなものが、
ある社会の中では通じないこともある…
そう考えると、枠から外れて「例外」とされ、
それが冷笑・冷遇されるのは、おかしなことなのかもしれませんね。

映画の中で、人形の内側に一回り小さい人形があって、
そのまた小さな人形の中にもっと小さな人形がある、
マトリョーシカが登場しました。
それを広げながら、魂が心に宿り、心が理性に宿り、
理性が体に宿ることによって人間ができるのだ、
といったことをジョルジュと女友達が話すシーンがありました。
短く登場しますが、とても深い含蓄のあるシーンです。
原因を特定できない厄介な症状は、結局のところ、
コアの部分から外側に向かって表出した魂の問題である…
そう考えれば、魂の手当ては本当に大事なことだと思うのです。
現在の病院は「魂科」ってないけれど。

自分の力で立てない、今までの人生を天上の神のせいにしていた…と
自分に失望するジミーに対してジョルジュは、
ジミーが尊厳をもった人間であること、
そして自分こそ自分の人生の主であれ、と言葉をかけます。
そういうことを、なんのてらいもなく、さらっと言えるって
すごいことですよね。

いよいよ映画もエンディングに近づくころ
様々な症状に苦しみ、過ごしていた自分を「コンプレックス」と表現するジミーに対して
ジョルジュは、そんな専門的な用語で自分を片付けるなと戒めます。
リアルタイムで映画館にいるときは、
それって、どういうことなのか?と思いましたが、
よく考えてみれば、日本語で劣等感という意味合いで用いられる
「コンプレックス」ではなくて、心理学的な表現としての
心的複合体という意味だったのでしょうね。きっと。
映画館では「戻る」ボタンがないから難しいですね。

じゃあ、コンプレックスではなくて、
ジミーはいったいなんだったのか。
ジョルジュはそれを魂が傷ついた、魂のけがだというのです。
ジミーの幼少期のこと、青春期のこと、そして成人してからのこと
いろいろショックを受けるようなことがあり、
また自分も他者にショックを与えるようなことをして
本来消化されて自分の人生の肥やしになるべき事柄が
いくつも未解決のまま、引きずっていることにより
魂が深く傷ついている、という意味なのかもしれません。

人と向き合い、対話によって得られる言葉は、
とっても難しいですね。
表面的な理解で終わってしまうか、
それとも人間のコアの魂の部分へと理解を進めるか…。、
病気のお子さんや、先立ったお子さんのご家族のカウンセリング
にかかわらせていただくうえで、非常に学びの多い映画でした。

渋谷での上映は終了したけれど、
それ以外の場所ではこれから公開するところもあるようです。
詳しくはこちらをどうぞ。